召しの意味がまだわからなくても、あなたが今いるその場所で、すでに何かが動いているとしたら——そう思えますか。
それとも、そんな言葉さえ今は遠いかもしれません。
「見よ、私は死にそうだ。この長子の権利など、私に何の役に立つのか。」(創世記25章32節)
神の約束は、思いがけない人を通して動いていく
自分がその場所にいるべき理由が、まだ見えていない。
そんな日が続くとき、人は知らないうちに、大切なものを手放す瀬戸際に立っていることがあります。
今日だけは、もうどうでもいい
エソはその日、野に出ていました。
一日中走り回って、獲物を追いかけて、でも何も取れないまま、くたくたに疲れて家路についていました。
近づいてくると、いい匂いがしてきます。
弟ヤコブが煮物を作っています。
赤いその煮物がなんなのか、甘いのか辛いのかもどうでもいい。
とにかくお腹に入ればいい。
身支度を整えてから食卓につく、なんて話ではありません。
「その赤いのを食べさせてくれ。私はくたびれているのだから。」
疲れ果てたとき、人は正直になります。
あるいは——疲れ果てているとき、自分が何を大切にしていたかも、見えなくなってしまうかもしれません。
彼が手放したのは、煮物より大きいものだった
弟ヤコブが言います。
「今すぐあなたの長子の権利を私に売りなさい。」
長子の権利とは何だったのでしょうか。
それは単なる「長男の特権」ではありませんでした。
アブラハムに与えられた神の約束——その継承権そのものでした。
アブラハム、イサク、そして次の世代へと受け渡されていくはずの、その流れの中に立つ権利です。
エソは答えます。
「見よ、私は死にそうだ。この長子の権利など、私に何の役に立つのか。」
レンズ豆の煮物と引き換えに、彼はそれを差し出しました。
疲れ果てた一日の終わりに、目の前の匂いに引き寄せられて、「そんなことはどうでもいい」と言いながら手放したものが、実はアブラハムから連なる神の約束の継承権だったのです。
それでも聖書は、この出来事の中で神の約束が着実に動いていたことを記しています。
「兄が弟に仕える」——リベカが胎の中でその言葉を受け取った時、意味はまだ見えていませんでした。
それでも、その言葉は動いていました。
ふさわしくない者を通して、理解できないような経路を通して、約束はそこに生きていたのです。
自分がここにいる理由がまだ見えなくても、今あなたが手にしているものを、神はまだ知っています。
影響力があると言われるけれど、自分ではまだそれが見えていない——その感覚自体が、すでに何かの中にいるということかもしれません。
それが、長子の権利という言葉の射程です。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
エソの話を読んで、正直ちょっとドキッとしました。
「死にそうなくらい疲れているのに、長子の権利なんて今の私に何の意味があるの」——その気持ち、全然わからないわけじゃないんですよね。
でも彼が手放したのは、煮物より圧倒的に大きなものだったんだって。
疲れているときほど、自分が今持っているものの重さに気づけないものなのかなって、僕も考えてしまいます。
くたくたに疲れているとき、あなたが「もうどうでもいい」と思いやすいのは、自分がここにいる意味のことではないですか——そのことを、僕もまだ考え続けています。
僕もそれが、まだよくわからないでいます。
《参考礼拝メッセージ》
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