身近な人が「この人は」と言ってくれる生き方

縁の下でずっと支えてきた。祈ってきた。動いてきた。それなのに「私はちゃんとやれているのだろうか」という問いが、ふと心をよぎることはありませんか。

聖書箇所

「この人はあなたにそうしていただく資格のある人です。この人は私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」

「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。ただお言葉を頂かせてください。そうすれば私のしもべは必ず癒されます。」

周りの人が「この人は」と言い始めたとき

この百人隊長という人物、実はかなり面倒な立場にいます。

上には千人隊長がいて命令を下してくる。下には100人の部下がいて現場の声を持っている。その板挟みの中で、毎日働いている人です。いわゆる中間管理職です。

そのしんどい立場にいながら、彼のそばで一緒に生きてきたユダヤ人たちは、こう言いました。「この人はそうしていただく資格のある人です」と。

注目したいのは、本人ではなく周りの人がそう言ったことです。

自分で「私はこれだけのことをしてきた」とアピールしたわけじゃない。日々の中で一緒に暮らし、裏も表も見てきた人たちが、気がついたら言っていた言葉です。

それはなぜか。彼がしてきたことが「評価されるためのもの」ではなかったからです。会堂を建てたことも、地域の人々に尽くしたことも、神様の前に「これをやりました、ポイントをください」という気持ちでしていたのではなかった。ただ、目の前の人と一緒に生きるなかで、できることをしてきた。それだけのことでした。

「資格がない」と言えた理由

イエスが向かってくると聞いた百人隊長は、使いを出してこう伝えます。「わざわざおいでにならないでください。私にはその資格がありません」と。

これは謙遜のポーズではないと思います。

あれだけ良いことをしてきた人が、なぜ「資格がない」と言えたのか。それは、してきたことを「ポイント」として積み上げていなかったからです。神様と同じ方向を向いて、目の前の人のために当然のことをしてきた。だから神様の前に「これだけやったから」と胸を張るものが、何もなかった。

そしてその「何もない」という自覚が、イエスに「こんな信仰はイスラエルにも見たことがない」と言わせた。

自分の部下を「まるで子どものように」心にかけ、自分では癒せないから使いを送った。それだけのことしかできなかった人間が、それでも動いた。その姿をイエスは「立派な信仰」と呼んだのです。

「なぜこれだけ祈っているのに変わらないのか」という問いが重くなるとき、この百人隊長のことを少し思い出してみてください。

彼も直接何かができたわけじゃない。ただ使いを送るしかなかった。それでもイエスは動きました。

あなたが今日もしている「祈りながら見守ること」は、何もしていないのではありません。できることをしている、それだけのことです。そしてそれは、神様と同じ方向を向いて生きている姿と、静かに重なっています。

考えてみましょう

自分がしてきたことを「ポイント」として数えていないとき、人はどんな顔をしているのでしょうか。

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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