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祈りたいのに、何を祈ればいいかわからない。
子どものこと、職場のこと、夫のこと——心配は尽きないのに、言葉が出てこない。
そんな時、あなたの祈りは「足りない」のでしょうか。
聖書のことば:
「祈る時には、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』」
(ルカの福音書11章2節)
「父上様」ではなく、「おとうちゃん」
イエスは弟子たちに、「父よ」と呼びかけて祈りなさいと言いました。
当時のユダヤの人々も、神を「父なる神」とは思っていました。でも、直接「お父さん」と呼びかけて祈ることは、誰にも教えられていなかった。
イエスが言ったのは、かしこまった「父上様」ではありません。
3歳の子どもが、お父さんの膝の上にちょこんと乗って、真っ直ぐに顔を見上げながら「おとうちゃん」と呼ぶ。
そういう呼びかけです。
その「おとうちゃん」は、子どもの声に耳を傾けます。
喜んで手を伸ばして関わろうとします。
怖くない。気まぐれでもない。
あなたが祈りかける相手は、そういうお方なのです。
あなたが「そこにいる」ことが、祈りになっている
では、何を祈ればいいのか。
「御国が来ますように」——これが祈りの核心です。
難しく聞こえますが、こういうことです。
「私が今日いるこの場所に、あなたの良いものが来ますように」。
「私が気にかけているあの人のところに、あなたの手が届きますように」。
それだけです。
イエスはたびたび一人で祈っていました。
その祈りはおそらく、こんな内容だったのではないかと思います。
「今日出会うあの人のところに、御国をもたらしてください。弱り果てている人がいます。迷っている人がいます。そこに私が出て行く時、あなたの御業がなされますように」。
自分の願いより先に、「遣わされていく先」のことを祈っていた。
あなたには、心に抱えている顔があるはずです。
孫の顔、子どもの顔、職場の誰かの顔。
直接何かしてあげられなくても、踏み込む言葉が見つからなくても——
「あの子のところに御国が来ますように」とつぶやくこと、それ自体が祈りです。
介入できないことへの無力感は、本物です。
でも、祈ることは介入とは違います。
あなたがその人を心に置き、神に差し出す。
それが、遣わされた者の仕事なのかもしれません。
神はあなたを、ご自分のお手伝いをしてくれる者として見ています。
表立って評価されるかどうかは、関係ない。
「あなたがそこにいる」ことを、神は必要としているのです。
考えてみましょう
今日、心に浮かぶ誰かの顔がある時、「あの人のところに御国が来ますように」とだけ祈るとしたら——それは「十分な祈り」だと、あなたは思えるでしょうか。
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