これだけ歩いてきたのに、なぜ足元が崩れるのか

祈って、見守って、地道に歩んできた。それは本当のことです。でも、ふとした瞬間に「あれ、私はちゃんとできているのだろうか」と不安になることはないでしょうか。

イスラエルはバールペオルと軛を共にした

近づけば近づくほど、新しい困難が来る

荒野の旅は、きつかった。でも荒野にいる間は、邪魔するものが少なかった。

イスラエルの民も同じでした。エジプトを出て、長い長い荒野を歩いてきた。水がない、食べ物がない。それでも神様と歩調を合わせながら、少しずつ前に進んできた。そしてようやく、約束の地が見えてきた。

そこで待っていたのは、喜びだけではありませんでした。

現地の人が立ちはだかり、新しい困難が次々と現れました。でもそれは見える困難でした。「あそこに敵がいる」「この道は通れない」。目に見えるものは、対処できます。神様の助けを求めて、一歩一歩越えていくことができる。

問題は、見えないところで起きていたことでした。

約束の地が近づいてきたとき、民は現地の娘たちと交わるようになります。一緒に食事をする。それ自体は、何もおかしくない。荒野で苦労してきた。美味しい食事を囲んで、楽しむことの何が悪いのか。

でも、その食卓はゆっくりと、次の場所への入り口になっていきました。食事の席から、現地の神々を拝む礼拝へ。少しずつ、気づかないうちに。

「これくらいなら大丈夫」と思っていた。自分だけは例外だと思っていた。でも振り返ってみると、いつの間にかそんなに遠くまで来てしまっていた。

聖書はこれを「バールペオルと軛を共にした」と言います。軛とは、二頭の家畜をつなぐ道具のことです。歩調を合わせ、一体となって進むための道具。民はいつの間にか、神様ではなく別のものと歩調を合わせるようになっていた。

それは壊疽のようなもの、と言えるかもしれません。最初の傷口はとても小さい。放っておいても大丈夫に見える。でも気づいたときには、思ってもみなかった場所まで広がっている。

「遠くの敵」より「近くの内側」

私たちは遠くを見て心配します。子供のこと、孫のこと、将来のこと。「あそこが心配」「この問題が解決しない」。目に見えるものに向かって祈り、備えようとします。

でも民の歩みを実際に台無しにしたのは、遠くにいた強大な敵ではありませんでした。近くにあった、ごく小さな「これくらいなら」でした。

これは脅しではありません。むしろ逆です。

遠くの問題が解決しなくても、あなたがここに立って、今日も歩調を崩さずにいること。それ自体がすでに、意味のある抵抗です。信仰歴15年という時間は、あなたが何度も「これくらいなら」を踏みとどまってきた歴史でもある。目立たないけれど、確かなものです。

足元を見る、ということは、弱さを認めることではありません。自分が今、何と軛を共にしているかを静かに確かめること。それだけで十分です。

考えてみましょう

今、自分が一番多くのエネルギーや心を注いでいるものは何でしょうか。それは自分を、どちらの方向へ連れて行っているでしょうか。

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