縁の下で働き続けて、祈り続けて、見守り続けて。それでも「これでいいのだろうか」という気持ちが、ふとした瞬間に顔を出すことはありませんか。
聖書にこんな言葉があります。
「主に愛されている兄弟たち、私たちはあなた方のことについて神に感謝しなければなりません。神が御霊による聖別と真理に対する信仰によって、あなた方を初穂として救いに選ばれたからです。」
「何もしていない」のに感謝する、という不思議
パウロはテサロニケの教会の人たちのことを、遠く離れた場所から思い浮かべていました。迫害を受けて、自分はその町を去らなければならなかった。会いに行くこともままならない。何かしてあげることもできていない。
それなのにパウロは言うのです。「感謝しなければならない」と。
その感覚、なんとなくわかる気がしませんか。
親戚のおじさん・おばさんとして、久しぶりに子どもや孫の顔を見る。特別なことは何もしていない。ただ遠くから気にかけていただけ。なのに「ああ、立派になっていった」と胸がいっぱいになる、あの感じです。
パウロにとってテサロニケの人たちはそれでした。自分が手をかけたわけではない。でも確かに育っていった。それを「初穂」と呼びました。
初穂というのは、誰かが土を耕して、種を植えて、水をやり、雑草を抜いて、見守り続けた末にようやく実る、最初の実りのことです。自然に勝手に生えてくるものではありません。誰かが関わり続けた結果です。
祈りながら見守ることも、そういうことかもしれません。「何もできていない」ように思えても、その祈りと気遣いは確かに土になっている。実りが見えなくても、土台は存在しているのです。
カーナビが山道を通らせるとき
パウロはこの旅を、もう一つの言葉で説明します。「御霊による聖別」と「真理に対する信仰」。
難しく聞こえますが、イメージはこうです。
長い旅に出るとき、車はちゃんと整備されている必要があります。ブレーキが効くか、エンジンはかかるか。走りながら警告灯が点いたら、立ち止まって手入れをする。御霊の働きというのはそれに似ています。生きていく中で私たちの歩みを整え、ズレを修正し、また前へ向かわせてくれる。
そしてカーナビ。目的地を信頼して、その言う通りについていく。ときに「こんな細い山道を?」と思うような道を示されることがあります。海に行こうとしているのに、なぜか山の中を走らされるような感覚。「なぜこんな道なんだろう」と思いながらも、ついていったら確かに着いた、という経験。
「なぜこんなことが続くのか」という問いに、簡単な答えは出せません。でも、目的地がある旅であるなら、山道も旅の一部です。外れているのではなく、そこへ向かうルートの一部である可能性があります。
それを根拠のない楽観で信じるのではなく、これまで歩いてきた道を振り返りながら、静かに信頼していく。そういうことなのかもしれません。
あなたがこれまで祈ってきたこと、見守ってきたこと、縁の下で支えてきたこと。それは無駄ではありませんでした。整えられながら、確かに進んできたのです。今日も、その続きの上に立っています。
考えてみましょう
「何もできていない」と感じながらも、誰かのそばにいて、祈って、気にかけてきたことが、あなたにはあるはずです。それは今日、その人にとってどんな土台になっているでしょうか。
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