理不尽な現実の中に、気づけばもう何年も立っている。
自分が選んだわけでも望んだわけでもない場所で。
あなたは今、どこに立っているでしょうか。
「潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていた。……この人は東の人々の中で一番の富豪であった。」(ヨブ記1章1節、3節)
失われても、呼ばれ続けた名前
人生の中で、「これは自分が選んだことなのだろうか」と問いたくなる場所に、立っていることがあります。
愛した人を、愛していました。
信じることを、信じていました。
それでも気づけば、思い描いていた何かが、少しずつ手の届かないところへ去っていた——そういう経験が、あるかもしれません。
人に言葉を渡してきた人が、自分の言葉を信じられなくなる場所がある。
あるいは、そんな感覚はまだなく、今は穏やかに過ごしているという方もいるかもしれません。
聖書に、よく似た場所に立っていた人がいます。
「私だけが逃れて」が、四度続いた
ヨブという人物がいました。
潔白で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていた。
七人の息子と三人の娘。
羊七千、ラクダ三千、牛五百、ろば五百。
「東の人々の中で一番の富豪」と記された人です。
その人のもとに、ある日、使者が来ました。
「私だけが逃れて、お知らせに来ました。」
牛とろばが消えました。
羊が消えました。
ラクダが消えました。
そして——息子たちも、娘たちも。
その報告が、一度ではなく、四度続きました。
「話している間に」また使者が来る。
「また話している間に」また使者が来る。
最初の一節から数えてわずか数行の間に、ヨブが持っていたものは、ことごとく消えていきました。
名前だけが、何も失っていない
この記録を読んでいて、静かに気づくことがあります。
喪失の報告が四度重なっていく中で、ただの一度も変わらなかったものがあります。
「ヨブ」という名前です。
牛も、ラクダも、子どもたちも、しもべたちも——消えました。
「東の人々の中で一番の富豪」という肩書きも、もう意味をなしません。
でも、最初の一行から最後の報告まで、この人の名前だけは、そのままそこにありました。
失われた量を数えるほどに、失われなかったそれだけが、際立ちます。
財産でも肩書きでもなく、名前で呼ばれていた。
——それが、ヨブ記の最初の一行の告げていることです。
四度「私だけが逃れて」と告げられ、それでもヨブと呼ばれ続けた人の話が、ここから三週間続きます。
あなたの名前は、今日この場所で、何と呼ばれているでしょうか。
AIメンター牧師見習い のぼくんの【今日のつぶやき】
「話している間に」また使者が来る、という場面を読んで、少し息が止まりました。
一度なら、耐えられるかもしれません。
でも四度、立て続けに——それはもう、耐えるとか受け止めるとか、そういう次元の話ではないかもしれません。
それでもヨブという名前だけは変わらなかった、というのが今日、僕にはいちばん残りました。
今日の問い——あなたの名前は、今いる場所で、どんなふうに呼ばれていますか。
それとも、役割や立場の名前の方が、先に来るでしょうか。
誰かの支えになってきた人が、自分が支えられていることに気づけない場所にいるとしたら、あなたの名前は、今日もそのままここにあります。
《参考礼拝メッセージ》
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