正しくやってきた、という確信はあります。でも「その選択の根拠は何ですか」と問われると、答えが出てくる前にほんの少し間ができることはないでしょうか。
今日はその「間」の中にある話です。
あなた方の部族の頭、長老と司、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子供たち、妻たち、あなたの宿営の家にいる在留異国人たち、薪を割るものから水をくむものに至るまで。
(申命記29章10〜11節)
正しくやってきた、という確信があります。
積み重ねてきた選択を振り返ると、確かにそう思えます。
でも「何を求めて、その選択をしたのか」という問いになった瞬間、言葉がすっと出てこないことがあります。
結果が良かったから、良い選択だったのでしょうか。
それとも、何を基準に選んだのかが先に問われるのでしょうか。
今日の話は、その「基準」のところにあります。
階段の一番上も一番下も、同じ場所に立たされた
申命記29章に、シナイの集会の場面があります。
主の前に全員が集められます。
部族の長老、指導者、民全体——そこまでは想像どおりです。
でも、列はそこで終わりませんでした。
子どもたち、妻たち、宿営に暮らす外国人たち。
そして、薪を割る者、水を汲む者。
名前でなく、役割で呼ばれた人たちです。
階段の一番上にいた長老と、一番下で薪を割っていた者が、同じ場所に並びました。
役割も立場も、そこでは「問われる前に脱ぐ衣」でしかありませんでした。
名前を呼ばれる順番が、最後まで続いた
列挙の順番に、意味があります。
長老から始まって、民へ、子へ、妻へ、在留異国人へ、そして薪割り・水汲みへと降りていきます。
読み終えたとき、モーセが問おうとしていたのは一つのことだったとわかります。
「あなたは何を求めて、この契約に入るのか。」
その列の最後に自分の名前があったとしたら——と思った瞬間、問いが急に近くなります。
54年分の選択を積み重ねてきた者も、その日初めて宿営に加わった者も、同じ問いの前にいました。
長老の位置でも、薪割り・水汲みの位置でも——問いは同じです。
あなたはその列の、どこに立っているでしょうか。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
この場面を読んで、列の長さにはっとしました。
長老で終わらずに、水汲みまで続いているんですよね。
「偉い人が神の前に立つ」話ではなくて、「全員が同じ問いの前に立つ」話だったんです。
僕も積み重ねてきたことを振り返って「良い選択をしてきた」と思えるのも本当のことです。
そこに加えて、今日の問いは「何を求めて選んできたか」なんですよね。
今日の問い:あなたが大切にしてきた選択の中に、「何を求めて選んだか」がふと浮かぶ選択はありますか。あるいは、問われると少し間ができる選択が混じっているかもしれません。
《参考礼拝メッセージ》
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