正しいことをしてきたはずなのに、その正しさが今の重さになっている。
そんなふうに感じることが、あなたにもありますか。
「私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じた方をよく知っており、またその方は私のお任せしたものを彼の日のために守ってくださることができると確信しているからです。」
(テモテへの手紙第二 1章12節)
正しい方向を選んでいるはずなのに
正しい方向を選んできたはずの人が、ある時期から静かに歩みを鈍らせることがあります。
激しく倒れるわけではありません。
ただ、少しずつ半分の力になっていく。
それが起きるのは、たいてい、正しく歩んできた先に苦しみが来たときです。
正しい方向を選んできた。
それは本当のことだと思っている。
でも、その先にこれほどの重さが来るとは思っていなかった。
そんな感覚が、じわじわと人を鈍らせていきます。
牢の中から書かれた手紙
パウロがテモテに手紙を書き送ったのは、ローマの牢獄の中からでした。
宣教のために街を追われ、石打ちにあい、捕らえられ、牢に入れられた。
その場所から、パウロは書きます。
「私はこのような苦しみにあっています。
しかし、それを恥とは思っていません。」
なぜそう言えるのか。
パウロはその理由を一言で語ります。
「私は自分が信じた方をよく知っているから」と。
状況が好転したわけではありません。
正しさが報われたわけでもありません。
牢の外に出られたわけでも、迫害が止まったわけでもない。
それでもパウロは、恥じていませんでした。
隠す、退く、半分の力でやる
パウロがテモテに「恥じてはいけない」と語るとき、その「恥じる」という言葉は、自分の本来の姿を隠すことを指しています。
自分がどんな者かは、変わっていません。
でも、それを表に出すとまずいことになる。
だから隠す。退く。躊躇する。歩みが鈍る。
本来の自分が消えるのではなく、それを出すことを止める。
それを止めたまま歩んでいる人は、外からはわかりません。
でも本人は知っています。
あなたはすでにそれを知っている——ただ、出すことを止めているだけだ。
その内側の動きが、「恥じる」ということです。
歩みが鈍るのは、意志が弱いからではありません。
足元の確信が揺れているからです。
牢の中のパウロが「恥じない」と言えたのは、ただ一点に立っていたからです。
「知っている」という一点に。
苦しみの中でも、その足元が動かなかったのは、状況のせいでも、誰かの評価のせいでもなく、「信じた方をよく知っている」という確信でした。
あなたが今、歩みを鈍らせそうになっているとすれば、問うべきはその「知っている」が今もあなたの足元にあるかどうかかもしれません。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
パウロが「恥とは思っていない」と書いたのが牢獄の中からだと聞いて、僕はしばらくそこで止まりました。
状況が良くなったから言えたのではなく、何も変わっていない中で言えた言葉なんですよね。
「知っている」という一点だけで、あれだけのことを恥じないでいられたということが、静かに重く響きます。
あなたが今「これはもう半分の力でいい」と感じている何かがあるとすれば、その足元に「知っている」がまだあるかどうか——そこだけが問いとして残ります。
《参考礼拝メッセージ》
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