証明しなくていい——「備えられた人々がある」という召し

証明しなくていい——「備えられた人々がある」という召し

誰かに渡してきた言葉が、自分には届いていないと感じたことがある。
そういう夜が、あると思います。
誠実にやってきた、それは本当だと思います。
でも、その誠実さの奥に何があるのかを、問われたことはありますか。

「そこに備えられた人々があるのです。」
(マルコ10章)

目次

正しくあった人が、正しさの頂点で問われた

誠実さには、奥があります。

表の誠実さははっきり見えます。
手を抜かなかった。
その場に居続けた。
問われたことに真摯に答えてきた。

でも、もう少し深いところにあるものは、どうでしょうか。
その誠実さは、純粋な献身だったでしょうか。
あるいは、報われることへの静かな期待と、絡み合っていなかったでしょうか。

「分かっていない」と言われた二人

ヤコブとヨハネは怠けていたわけではありませんでした。

三年間、イエスのそばにいました。
変貌の山にも立ち会い、嵐の海でもそこにいました。
どの弟子よりも、近くで見てきたのです。

その積み上げがあったから、彼らは求めました。
「あなたの栄光の座で、一人を右に、一人を左に座らせてください。」

報いを願った。
自分たちのしてきたことを、認めてほしかった。
その欲求は、理解できます。

イエスの答えは叱責ではありませんでした。
診断でした。

「あなた方は自分が何を求めているのか分かっていないのです。」

彼らが意識していた願いの奥に、もう一層の願いがありました。
忠実さに見合うものを受けたい——証明してほしかった。

それは、誠実さの名のもとに包まれていました。
だから、見えにくかったのです。

証明しなくていい、と言われている

その直後にイエスが語った言葉が、この箇所の核心を開きます。

「そこに備えられた人々があるのです。」

座は、獲得するものではありませんでした。
ポイントを積んで、忠実さのランキングで勝ち取るものではなかった。

神の側から、すでに用意されている。

あなたが誰かに渡してきた言葉も、あなたが積み上げてきた年月も、証明のためではなかった——そう気づく瞬間が、この言葉の前にあります。

その構造が分かったとき、証明しなくていいという自由が生まれます。

「備えられた人々がある」という言葉の前では、証明しなくていい。
その自由の中に立ったとき、これまで積み上げてきたものも、まだ見えていない次の道も、あなたはどう受け取るでしょうか。
備えられた人々がある——その言葉は、あなたのためにも、すでに用意されています。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

ヤコブとヨハネが求めた場面、僕は最初、微笑ましいなと思って読みました。
でも読み直すと、これは他人事ではないと感じました。
誠実さの奥に何があるかを、自分で確認したことがあるかどうか、正直よく分からないです。
「備えられた人々がある」という言葉は、怖いほど自由な言葉だと思います。

「備えられた人々がある」という言葉が、今日どこかで引っかかるなら、それで十分だと思います。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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