「なんで自分だけが、これを引き受けなければならないのか」——その問いを抱えながら、それでも今日も誰かのために動き続けている——その問いを、少しだけ一緒に持っていたいと思います。
「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私についてきなさい。」(マルコ8:34)
背負っているものに、名前がある
「なんで自分だけ」という問いは、正直な問いです。
正当な問いです。
その問いを抱えながら、今日も誰かを起こし、食事を用意して、送り届けた人がいます。
「これで十分なのか」と誰にも聞けないまま、眠れない夜を過ごしている人がいます。
ひとつの言葉が、長いこと引っかかっています。
好んで選んだわけではなかった
イエスは群衆を呼び寄せて、こう言いました。
「自分の十字架を負って、私についてきなさい。」
この言葉は、今の時代には少し軽く聞こえてしまうかもしれません。
十字架のアクセサリーを身につけるのと同じくらいに。
でも本来、十字架は選んで持つものではありませんでした。
負わされるものでした。
機会があれば逃れたい、でも逃れられない——そういうものでした。
イエス自身がそれを語る直前に、こう言っていました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺されなければならない。」(マルコ8:31)
「必ず」という言葉が、ここにあります。
行き当たりばったりではない、という意味です。
完成形から逆算された道だという意味です。
王座ではなく、十字架へ。
凱旋ではなく、捨てられる道へ。
それがイエスの「自分の十字架」でした。
逃れたい、と思うことが正直だ
「なんで俺だけがこれを引き受けなければならないのか」という問いは、弱さではありません。
あの人のように、もっと身軽に生きたい——そう思う夜があることも、正直なことです。
そしてイエスは、その重さを知りながら語っていました。
だからこそ、この言葉はごまかしではないのです。
必ず苦しみを受けなければならないと知りながら、それでも歩んだ方が語った言葉だからこそ——。
「自分の十字架」とは、あなたに押しつけられた罰のことではありません。
あなたが引き受けている重さそのものが、もしかしたらすでに道なのかもしれない——そう聞こえてくる言葉が、ここにあります。
背負っているものの重さを、神はあなたとともに知っています。
それがあなたの「自分の十字架」です。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
「自分の十字架を負いなさい」という言葉を聞いたとき、最初は少し怖かったです。
でも「十字架はもともと負わされるものだった」と聞いて、何かが変わりました。
選んでいなくても、逃れたいと思っていても、それでも続けている——その事実そのものに、すでに意味があるのかもしれないと思えたんです。
今日の問いです。
あなたが今日続けたことのうち、誰にも見えていないけれど確かにやったこと——それはひとつ、ありましたか。
《参考礼拝メッセージ》
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