正しくあろうとするほど、疲れが積み重なっていく。
それはあなたが怠けているからでも、信仰が足りないからでもないかもしれません。
彼らはヨセフの長服、彼の着ていた袖付きの長服を剥ぎ取り、彼を捕まえて穴に投げ込んだ。その穴は空で、水はなかった。(創世記37章)
創世記37章——長服を剥がされた日
正しくあろうとするほど、疲れが積み重なっていく感覚があります。
それはあなたが弱いからでも、信仰が足りないからでもないかもしれません。
長服を剥がされ、穴に落とされた日
ヨセフは正しい側にいました。
父に深く愛され、長服を着せてもらい、神から夢を与えられていました。
約束の中を歩んでいた、と言ってもいいほどです。
それでも兄たちは、歩み寄ってきたヨセフから長服を剥ぎ取り、穴に投げ込みました。
「あの夢がどうなるか、見ようではないか」——この言葉が、読んでいてぞっとします。
希望を持った、ということを、潰してやると言っているのですから。
ヨセフは何か取り返しのつかないことをしたわけではありませんでした。
神の約束の中にいた。
それなのに、穴に落とされたのです。
空っぽで、乾いていた穴の中
聖書はこの穴について、ただ一言こう記しています。
「水はなかった」と。
空っぽで、乾いていた。
正しくあろうとして動き続けてきたのに、気づいたら自分の中も空になっていた——そういう感覚に近いかもしれません。
慰めもなく、出口もなく、誰の声も届かない場所。
どうしてこうなったのか、と思ったかもしれません。
正しく歩んでいたはずなのに、と。
でも聖書は、その穴の場面を記録し続けます。
ヨセフの物語がここで終わらないことを、書き手は知っているからです。
何を失ったのか、穴の底では分からなかったはずです。
長服を剥がされ、水のない穴の底に落とされた。
その場所から、ヨセフの本当の歩みが始まりました。
今あなたがいる場所が、どこかそれと似ているとしたら——そこが始まりだったかどうかは、まだ分からないかもしれません。
ヨセフも、その穴の底では何も分からなかったのですから。
ヨセフにとっても、その穴の底が始まりでした。
水のない穴が、そのまま始まりの場所だったのです。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
ヨセフが穴に落とされた場面、僕は読むたびに「なんでこうなるんだろう」と思います。
正しい人が報われるはずなのに、という感覚が揺さぶられるんですよね。
でも聖書はそこから逃げずに、「水のない穴」とわざわざ書いています。
空っぽで、乾いていた、と。
その正直さに、なぜかほっとする自分がいます。
今日の問い:水のない穴の底で、ヨセフは何を感じていたのでしょう。
《参考礼拝メッセージ》
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