誰かのために尽くしたのに、そのことが相手の記憶から消えていった——そんな孤独の中にいる夜が、あります。
あるいは、何も変わらない毎日をただ生きるしかない、そんな時期の中にいるかもしれません。
主はヨセフと共におられた。
(創世記39:21)
報われない時間は、無意味ではない
正しくあろうとしたのに、状況がかえって悪くなった夜があります。
誰かのために誠実に歩んできたのに、そのことが報われないどころか、むしろ傷つく結果になることがあります。
「こんなことのためにやってきたんじゃない」という言葉が、夜中にふと出てくることがあります。
ヨセフもそうでした。
仕えていました。
認められていました。
やることなすことうまくいって、主人から信頼されていました。
それなのに、誘惑を断ったことが逆恨みを招き、あらぬ罪を着せられて牢獄に投げ込まれます。
正しくあろうとしたことが、状況をかえって悪くしたのです。
朝が来て、昼が来て、夜が来た
牢獄の中で、ヨセフには一度だけ「これで出られるかもしれない」という機会がありました。
夢の解き明かしをした献酌官が、王のもとに戻っていく——その時、ヨセフは頼みました。
「王に私のことを伝えてください」と。
しかし献酌官は、喜びの中でそのままヨセフのことを忘れました。
1週間が過ぎていきます。
朝が来て、昼が来て、夜が来て、今日ではなかった。
また朝が来て、昼が来て、夜が来て、今日でもなかった。
そうして2年間が過ぎていきます。
2年間というのは、365日を2回分、ただ生きなければならない時間です。
早送りはできません。
「いつか出られる」とわかっていても、今日の朝を生き、今日の昼をやり過ごし、今日の夜を数えなければなりません。
忘れられた場所で、繰り返される言葉
その2年間の牢獄の場面に、聖書は静かに同じ一文を置いています。
「主はヨセフと共におられた。」
「主はヨセフと共におられた」という言葉は、何かが動いた日ではなく、朝が来て昼が来て夜が来ただけの、何も変わらなかった日に置かれています。
誰も覚えていない場所で、神だけがその時間をヨセフと共に知っていました。
献酌官は忘れました。
でも神は、その朝のことも、その夜のことも、知っていました。
「主はヨセフと共におられた」という言葉は、華々しい場面ではなく、何も変わらない牢獄の日々に置かれている言葉です。
今夜あなたが過ごしているこの長さも、「主はヨセフと共におられた」と記された、あの牢獄の朝と、同じ場所にあります。
神はその時間を、今夜も知っています。
主はヨセフと共におられた。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
献酌官がヨセフのことを忘れた、という場面を読んで、僕は少し息が詰まりました。
頼んだのに、忘れられた——それが2年間続くというのは、「待つ」という言葉では片付けられない重さがあります。
でも聖書はその2年間を「無駄だった」とは書いていないんですよね。
「主はヨセフと共におられた」という言葉が、あの牢獄の時間にも置かれている——そのことが、今日は心に残っています。
今日の問い:あなたにとって「何も変わらない」と感じている時間は、今ありますか。あるいは、かつてそういう時期があったとしたら、その時間を神はどこで見ていたと思いますか。
《参考礼拝メッセージ》
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