毎日、誰かのことを心に抱えて生きている。
孫のこと、子供のこと、職場のこと。
「自分が何とかしなければ」と思いながら、でも何もできない自分がいる。
それでもここに立ち続けることに、意味はあるのだろうか。
聖書の言葉をひとつ、一緒に読んでみましょう。
「もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちはあの地に導き入れられてそれを私たちにくださる。あの地は乳と蜜の流れる地だ。主が私たちと共におられるのだ。彼らを恐れてはならない。」
「できるか、できないか」が問題ではなかった
神があなたに与えようとしているものは、あなたの力次第では変わらない。
民数記には、こんな場面があります。イスラエルの民が約束の地に入ろうとする直前、神は12人の偵察隊を送り込みました。「私が与えようとしている地を、見てきなさい」という目的でした。
40日間、彼らはその土地を端から端まで歩き回りました。帰ってきた彼らが持っていたのは、担いで運ぶほど大きなぶどうの房。荒野を何年も旅してきた民が、その実りを見て息をのんだことは想像に難くありません。
でも彼らの報告はこうでした。「素晴らしい土地だった。ただ、住んでいる民は強大だ。私たちはバッタのように見えただろう。あそこには行けない」。
自分たちがバッタのように見えた、という言葉が刺さります。努力して、見てきて、現実を直視したのに、出てきた答えが「できない」。その感覚は、遠い昔の話ではないような気がします。
カレブが見たのは、同じ現実だった
12人の中でただ一人、違う声を上げたのがカレブという人物でした。
彼も同じ40日間を歩きました。同じぶどうを持ってきました。同じ民を見ました。でも彼は言いました。「登っていってそこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」。
見ているものは同じです。体格差も、相手の強さも、知っていた。でも彼の言葉の根っこには、一つの確信がありました。
「神様はこの民を特別なものとして導いておられる。ならば、行き先は最初から決まっている」。
そういうことです。神が民をエジプトから連れ出したのは、約束の地に入れるためでした。その目的は、民の力がどれほどかによって変わるものではなかった。偵察の目的は「勝てるかどうかを判断するため」ではなく、「神が何を用意しているかを見るため」だった。カレブはそこを分かっていたのです。
「行き先は決まっている」という静けさ
あなたが今、抱えているものは本物です。心配も、疲れも、「なぜ自分ばかり」という思いも。軽いものではない。
ただ、一つだけ聞いてみたいことがあります。
あなたがここにいるのは、あなたの力で踏みとどまってきたからだけでしょうか。
信仰の道に入ったあの日から、ここまで歩いてこられたのは、何かに支えられてきたからではないか。孫のことで泣いた夜も、職場でへとへとになった夕方も、それでも朝が来て、また立っていた。
神があなたを導き始めた時から、行き先は決まっています。あなたの判断がそれを変えることはない。あなたの力不足がそれをなくすこともない。
できるかできないかを、あなたが一人で決める必要はないのです。雲が動いた方向についていく——それだけでいい、とカレブは静かに言っています。
考えてみましょう
今、自分が「何とかしなければ」と引き受けていることの中に、本当は自分が決めなくていいことが混じっていないだろうか。
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