「無力です」と祈った夜、神のはらわたが動いた

「無力です」と祈った夜、神のはらわたが動いた

どうにもならない状況の前で、ただ静かに限界を認めるしかない夜が、あなたにもあるでしょうか。
あるいは、限界を感じながらも「これくらい大丈夫」と自分に言い聞かせてきた夜かもしれません。

これについてダニエルは家に帰り、この秘密のことを友人のハナニヤ、ミシャエル、アザリヤに知らせ、天の神が憐れみを施してくださり、この秘密のことが明らかになるよう、彼らが天の神の憐れみを乞い求めるようにと願った。(ダニエル書2章17〜18節)

目次

無力のまま神の前に立つということ

どれだけ努力しても、どれだけ誠実に歩んでも、どうにもならないことがあります。
それを認めるのは、弱さでしょうか。
それとも、正直さでしょうか。

できる人たちが、「無力です」と言った夜

ダニエルと三人の友人たちは、飛び抜けて優れた人たちでした。
知識も分別も、他の誰にも引けを取らない。
王の宮廷でその才能を認められ、重用されていた人たちです。

でも、ある夜に状況が一変します。
王が見た夢を解き明かせる者がいなかった。
怒り狂った王は、国中の知者たちを処刑する命令を出しました。
ダニエルたちもその中に含まれていました。

夢の内容すら知らされていない。
どれだけ頭を絞っても、答えを出せる状況ではない。
その夜、彼らは友人たちと共に集まって、祈りました。
「私たちの力では、どうにもなりません。どうか憐れんでください」と。

自分たちの業績や才能を根拠に、神に何かを要求したのではありませんでした。
ただ無力を認めて、憐れみを乞い求めた。
力があると見られている人が、力のないまま祈った。
その逆説が、この夜の核心です。
その夜、神はダニエルに夢の秘密を示しました。

「かわいそうだ」と感じる、はらわたの動き

彼らが祈った「憐れみ」という言葉は、ヘブライ語で「ラハミーン」といいます。
語源は「胎(はらわた)」です。
相手の痛みを、自分のはらわたで感じ取る。
深いところから湧き出る慈しみのことです。
「かわいそうだ」と感じるとき、胸のあたりが締め付けられる、あの感覚に近いかもしれません。

ダニエルたちが「無力です」と神の前に出たとき、神はそのはらわたを動かして答えました。
才能があったからではありません。
努力が足りなかったからでも、足りていたからでもありません。
力のないまま神を見上げた者に対して、神の深いところが動いた。

誰かに見せられる言葉にならなくても、胸の奥でじわりと重くなっているものがあるとしたら——
声にならないまま積み上がってきた疲れも、誰にも言えなかった夜の重さも、神のはらわたを動かします。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

ダニエルたちって、僕からすると「すごい人たち」のイメージだったんです。
でも今日の場面を読んで、「あ、この人たちも手の届かない状況の前で、ただ祈るしかなかったんだ」と気づきました。
「無力を認める」って、諦めじゃなくて、正直さなのですね。
自分の限界を神の前に持って行くことが、信仰の一つのかたちなんだと、今日は少し腑に落ちました。

あなたが今「これは自分ではどうにもならない」と感じていることがあるとしたら——それだけで、もう神のはらわたは動いているかもしれません。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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