祈って、動いて、気を配って。それでも何も変わらないように見える日がある。「私は何かできているのだろうか」と、ふと手が止まる瞬間がある。あなたの今のその場所は、本当は何を意味しているのだろう?
聖書箇所:テサロニケ人への手紙第二 1章3節〜5節
あなた方の信仰が大いに成長し、あなた方全ての間で1人1人の互いに対する愛が増し加わっているからです。……あなた方はあらゆる迫害と苦難に耐えながら忍耐と信仰を保っています。それはあなた方を神の国にふさわしいものと認める神の正しい裁きがあることの証拠です。
「大変な中にいる」は、弱さの証拠じゃない
愛には成長のレベルがある、と思うと少し面白くなります。
いちばん最初のレベルは「自分がしてあげたいことをする」。好きな人に、したいことをする。純粋で温かい出発点です。でもそこから少しずつ変わっていく。「相手が本当に必要としていることは何か」を考えるようになる。自分の感情とは関係なく「この人に良いものをもたらしたい」と思えるようになる。そしてやがて、「何かをする」より先に、「あの人がいてくれるだけで大丈夫」と思われる存在になっていく。
パウロはテサロニケの教会の人たちを見て、「あなた方の愛が増し加わっている」と言いました。でも、それは穏やかで問題のない環境の中での話ではありませんでした。
「あらゆる迫害と苦難に耐えながら」。この言葉が鍵です。
豊かな中でではなく、苦難の中でこそ
余裕があるから優しくできる。満たされているから分け与えられる。そう思いがちです。でもパウロが感動していたのは、そういう話ではありませんでした。
「私だって今日のパンがないんです」「あなたもないんですか?」「じゃあどうしましょう」。そんな状況の中で、それでもお互いのために動いている人たちの姿に、パウロは感謝していたのです。
苦難の中にいるからこそ、相手の大変さが分かる。自分も追い詰められているからこそ、本当に必要なことが見えてくる。愛は、平和な場所で育つより、むしろ苦しい場所でこそ深まっていく。
これはきれいごとではありません。パウロは「これが神の正しい裁きの証拠だ」とまで言っています。あなたが今、苦難の中にいるのは、信仰が足りないからではない。むしろその只中で、愛が鍛えられているのだと。
「寄り所」になっている人は、それに気づきにくい
誰かのために動き続けている人は、たいてい「自分は何もできていない」と感じています。
もっと直接助けてあげられたら。もっとうまく声をかけられたら。もっと踏み込めたら。そういう「できなかったこと」が積み重なって、疲れていく。
でも、愛のいちばん深いところにあるのは「何をするか」ではなく「どんな存在か」です。「あの人がいてくれるから、私は立ち上がれる」と誰かが思えるような、そういう存在になっていくこと。それは、見えないところで静かに起きていることです。
あなたが今日も誰かの「寄り所」になっているとしたら、それは表立って評価されるものではないかもしれない。でもそれは、愛の成長の、いちばん深いところにある姿です。苦難の中でこそ、それは本物になる。
考えてみましょう
「自分は何もできていない」と感じるとき、その裏側に「あなたがいてくれるから」と思っている誰かの顔が、ひとつでも浮かぶとしたら?
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