荒野は、神様の間違いじゃなかった

どれだけ動いても、祈っても、状況が変わらない日々がある。「なぜ私の周りはいつもこうなんだろう」と、ふと思ってしまう瞬間が。そんな気持ち、あなただけじゃないかもしれません。

聖書箇所:民数記9章15〜23節

彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により主への勤めを守った。

海を渡った先が、荒野だった

イスラエルの民は、エジプトで奴隷として生きていました。神様に叫び続けた末、ようやく海が割れて向こう岸に渡れた。やっと自由になれた。これから豊かな約束の地へ——そう思ったはずです。

でも海の向こう側は、荒野でした。

日差しが強く、雨も降らず、食べ物も水も十分にない。老いた人も、小さな子どもも、その荒れた地をひたすら歩いていかなければならない。「神様、これは間違いじゃないですか」と言いたくなるのは、当然のことだったと思います。

ところが民数記を読んでいくと、この荒野は「仕方なく通る迂回路」ではなかったことがわかります。神様は荒野に入る前に、民一人ひとりを数え、部族ごとに配置を決め、幕屋に仕える者たちには細かく役割を割り当てていました。「とりあえずこれで乗り切って」という間に合わせではない。荒野の中でこそ生きるための、ちゃんとしたデザインでした。

荒野は通るべくして通る道。神様の手違いでも、迂回路でもなかったのです。

「宿営を続けること」も、主への従い

さらに興味深いのは、民の動き方です。

彼らは自分の判断では動きませんでした。幕屋の上に雲の柱が立っている間は、宿営し続ける。雲が動けば、旅立つ。それだけでした。

一日でも、一ヶ月でも、一年でも——雲がとどまっている限り、彼らはその場に留まり続けました。

それは「何もしていない」ではありませんでした。主の命により宿営することが、すでに従いだったのです。動けない時間の中にも、意味があった。待ち続けることの中に、神への応答があった。

夜も消えなかった、あの光

昼は雲の柱として、夜は火の柱として——民はその光を見失いませんでした。誰がどこにいても、幕屋の上の光はそこにあり続けた。

うまくいかない日が続いても、答えが見えなくても、あなたが今いる場所が「通るべくして通る道」だとしたら。その場所を、神様は見失っていない。

「守られている」という感覚が、理由もなく静かに強まる時があるとしたら、それはたぶん根拠のない気のせいではないと思います。

考えてみましょう

今、自分の人生の中で「ここは荒野だ」と感じている場所があるとしたら——それが迂回路ではなく、通るべくして通る道だとしたら、あなたの受け止め方は少し変わるでしょうか。

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