誰かの愚痴を引き受けて、陰で動いて、祈って。それなのに感謝の言葉は別の方向へ飛んでいく。そんな経験が、あなたにもあるのではないでしょうか。
聖書箇所
「モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。『逆らう者たちよ、さあ聞け。この岩から我々があなたがたのために水を出さなければならないのか。』」(民数記20章10節)
40年分の苦労を、ひと言で否定された人
モーセという人物がいます。
彼は民を40年間、荒野で導き続けました。不平不満はいつもモーセに向かいました。水が欲しいと言ってはモーセに訴え、食べるものがないと言ってはモーセを責めた。なのに祈りと感謝は神様へ向かう。その非対称さが、ずっと続いていました。
そしてついに約束の地が目前に迫ったその時、また民が言いよってきたのです。「なんでこんなところに連れてきたのか。死んだ方がましだった。」
40年分の積み重ねを、ひと言でなかったことにされた。腹を立てない方がおかしいと思います。モーセは岩を杖で2度打った。すると水が湧き出た。民は飲んだ。でも誰もモーセに礼を言わなかった。
こんな理不尽なことが、あっていいのでしょうか。
神様の言葉は、さらに理不尽だった
水が湧き出た後、今度は神様がモーセに語りかけます。「あなたは私が聖であることを民の前に示さなかった。だからあなたは約束の地に入ることができない。」
民に責められ、次は神様にも責められる。「一体誰のために、私はここまでやってきたのか」——そう叫びたくなる場面です。
でも神様の言葉の意味は、責める以上に深いものでした。
モーセが最初に民を救おうとした時のことを思い出してください。彼は自分の力で仲間を守ろうとして、退けられました。それから40年後、今度は神様がモーセを呼んだのです。「行け。私があなたを遣わす。」
モーセが民を導いたのではありませんでした。神様がモーセを通して導かれていた。その違いが、最後の最後に問われたのです。「私の力でやってきた」という思いが、知らないうちにモーセの中に育っていた。だからこそ、民の言葉が「自分への攻撃」に聞こえた。
「私を通して」――その言葉が、静かに重さを変える
これは、モーセだけの話ではないと思います。
長い時間をかけて、誰かのために動いてきた。祈って、見守って、陰で支えてきた。それなのに伝わらない。感謝も届かない。「私がここまでしているのに」という言葉が、心の中で静かに重くなっていく。
そういう時、神様の問いはこんな形で来るのかもしれません。「あなたを通して、私が動いているのだよ。」
それは「あなたじゃなくていい」という意味ではありません。「あなただから、ここに置いた」という意味です。不平不満を引き受ける場所に、感謝が届かない場所に、それでもあなたがいる。そこに神様が動いている。
評価されなくても、報われなくても、あなたがその場所にいることには意味があります。誰かに伝わらなくても、神様はちゃんと見ている——そのことを、モーセの物語は静かに語りかけてきます。
考えてみましょう
今のあなたの持ち場で、不平不満を引き受けながらも感謝はなかなか届かない、そんな場面があるとしたら——「私がやっている」と「私を通して神が動いている」は、あなたにとってどう違うでしょうか。
参考礼拝メッセージ
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