毎日同じように働いて、同じように祈って、同じように気にかけている。それでも何かが変わる気配はない。そんな繰り返しの中で、「以前はもっとうまくいっていた気がする」と感じたことはありませんか。
聖書の言葉をひとつ、読んでみてください。
「今や私たちの喉はカラカラだ。全く何もなく、ただこのマナを見るだけだ」
「今が不満」だから、過去が輝いて見える
エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野の旅を続けていました。
雲の柱と火の柱に導かれて、少しずつ約束の地に近づいている。それは確かなことでした。でも、毎日が同じ景色の繰り返しです。変化がない。刺激がない。ゴールの実感もない。
そうして民の心に浮かんできたのは、エジプトへの郷愁でした。
「あの頃はよかった。魚も食べられた。キュウリも、スイカも、ニンニクもあった。今は何もない。このマナだけだ」
でも少し立ち止まって考えてみてください。エジプトでの彼らは、奴隷でした。自由がなかった。自分たちが必死に働いた成果は、すべて異国の主人のものになっていきました。それが「あの頃」の現実でした。
なのに今、彼らはそのことを思い出しません。
「今が不満だから」、過去の良かったことだけが浮かび上がってくる。これが脳の性質です。今がしんどければしんどいほど、記憶はそっと「あの頃は違った」というストーリーを作り出します。
今ここにあるものが、見えなくなっていた
民が「ただこのマナを見るだけだ」と言った時、聖書はすぐ後でそのマナについて丁寧に説明しています。
コエンドロの種のような形で、油で揚げたお菓子のような味がした、と。荒野で毎日安定して与えられる穀物質の食べ物。それは、命をつなぐものでした。砂漠の中で、それが毎朝降ってきていた。
でも民には、もうそれが見えていませんでした。「あって当たり前」になっていたからです。
ないものは鮮やかに見える。あるものは透明になっていく。これは民だけの話ではないと思います。
毎日誰かのために動いている。職場でも、家庭でも、教会でも、祈りの中でも。それが積み重なると、いつの間にか「これが普通」になっていきます。自分でもそれが見えなくなる。
でも、あなたがそこにいることで、誰かの何かが今日もちゃんと動いている。それはマナと同じで、なくなってみてはじめて気づかれるものかもしれません。
「あの時は違った」という思いが来る時、それは「今が不満だ」というサインです。それ自体は正直な感覚です。でもその時にほんの少しだけ、「では今ここに何があるか」と目を向けてみることが、見方を変えるきっかけになるかもしれません。
今日あなたのそばにあるものが、実は誰かには見えていないほど大切なものかもしれない。そう思うと、この一日の景色が少し変わってくることがあります。
考えてみましょう
今日の「ただこれだけ」と感じているものが、もし突然なくなったとしたら、自分は何を失うことになるだろうか。
参考礼拝メッセージ
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