孫のこと、息子のこと——直接手を差し伸べられないまま、夜が明けていく。「祈るしかない」という言葉を自分に言い聞かせながら、でもそれが本当に答えなのか、どこかで信じきれずにいる。そんな夜を、あなたは知っていますか。
絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
(Ⅰテサロニケ5章16〜18節)
「何もできない」は、祈りではないのか
祈るしかない、という言葉がある。
この言葉は、ときに「もうできることがない」という意味で使われます。手を尽くした。でも届かなかった。だから祈るしかない。そのとき「祈り」は、何かの代わりになっています。できることの、最後の残りかすのように。
でも、本当にそうでしょうか。
パウロがテサロニケの教会に手紙を書いたとき、その人たちは追い詰められていました。信仰を持ったことで命を狙われ、仲間が連れ去られ、どれだけ踏ん張っても状況は変わらない。そんな中でパウロは言いました。「絶えず祈りなさい」と。
これは、「もうできることがないから祈れ」という意味ではありません。
祈りとは、神との心の通わせである
パウロが言う「祈り」は、形式的な言葉を並べることではありません。口に出すことだけでもありません。
心の中で「ああ、神様」とつぶやくこと。言葉にならないまま胸の中にある悲痛な叫び。孫のことを考えながら、眠れないまま天井を見ている、その時間。それもまた、神への祈りだとパウロは言っています。
「絶えず」と書いてあるのは、そういうことです。特別な時間だけではない。すっきりした気持ちのときだけではない。嬉しいときには嬉しいように、悲しいときには悲しいように、辛いときには辛いように——その現実のまま、神との関わりの中に生きていくことが、祈りなのです。
「小心なもの」も、その歩みの中にいる
同じ箇所に、こんな言葉があります。
「小心なものを励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」
「小心なもの」とは、やるべきことはわかっている。でも一歩が踏み出せない人のことです。確信が持てない。自分がそこにいていいのかどうか、わからない。
息子のことを心配している。でも口に出したら負担になるかもしれない。だから言えない。心配を隠したまま、ただそこにいる。——それは「何もしていない」のではありません。その葛藤ごと、その沈黙ごと、パウロの言葉はその人を「歩みの中にいる人」として見ています。
何かをしている人だけが、神の前にいるわけではないのです。
できないまま、言えないまま、それでも神に心を向けて立っている——その状態を、パウロは「絶えず祈りなさい」という言葉で指し示しています。
「祈るしかない」が、もし「何もできない」の言い換えに感じられるなら、一度だけ問い直してみてください。「祈る」とは、神との心の通わせの中に立ち続けることだとすれば——あなたは今夜も、すでに祈っているのではないでしょうか。
考えてみましょう
言葉にならない思いを、心の中で誰かに向けているとき——あなたはその思いを、どこへ向けていますか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

コメント