答えが見えないとき、待つことは弱さではないかもしれません。バプテスマのヨハネの「待望」は、牢の中からも止まらなかった。その問いは、今のあなたの問いと重なるでしょうか。
おいでになるはずの方はあなたですか。それとも私たちはなお他の方を待つべきでしょうか。
(ルカの福音書7章)
牢の中から送られた問い
バプテスマのヨハネは、聖書の中でも特別な使命を与えられた人物です。
救い主が来る前に、その道を整える。人々に「備えよ」と呼びかける。その役割を果たすために生まれてきた人間でした。
ところが、実際にイエスが現れ、神の業が起き始めたそのとき——ヨハネは牢の中にいました。
自由に動けない。直接見ることもできない。弟子たちから噂を聞くだけで、自分には何もできない。そんな状況の中で、ヨハネは弟子を2人イエスのもとへ送り、問いを届けます。
「あなたなのですか。それとも、まだ別の方を待つべきですか。」
これは疑いの言葉というより、限界の中から絞り出された問いです。「私にはもう確かめる手段がない。何もできない。でも、問うことはやめられない」——そういう声です。
神の答えは「見なさい」だった
イエスはその問いを受けて、こう言いました。
「行って、あなたがたが見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見え、足の萎えた者が歩き、耳の聞こえない者が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられている。」
直接会いに行ったわけではありません。ヨハネを牢から出したわけでもありません。「こういうことが起きている。それを見れば分かる」と、弟子たちを通して伝えたのです。
道路の標識のようなものです。横浜がまだ見えていなくても、「20キロ先に横浜」と書いてあれば、その道を信じて進むことができる。今ここでは見えなくても、起きていることを見れば「そういうことだ」と分かる。ヨハネへの返答は、そういう性質のものでした。
ヨハネ自身は動けない。自分の目で確かめられない。でも、神の業はヨハネの知らない場所で、ヨハネのいない場所で、すでに動いていた。
何もできない場所にも、問いは生きている
ヨハネが牢の中で問いを送り続けたように、何もできない場所から届けられた声は、どこかに着いていた。
あなたにも、そういう場所があるかもしれません。
手を動かすことはできる。でも、本当に助けたい人のところへは届かない。心配していることを口に出せないまま、夕食の準備をしながら「任せるしかない」と言い聞かせている。祈るしかない、とわかっている。でも「祈るしかない」が答えだとは、どうしても思えない。
そのとき、ヨハネの問いを思い出してみてください。
彼は牢から動けませんでした。何かを成し遂げることも、結果を見届けることも、できなかったかもしれない。それでも問いを送り続けた。その問いは届いた。そして神の業は、ヨハネのいない場所で、着実に起きていた。
何もできないと感じている場所から送り続けている問い。その問いがどこへ届いているかを、私たちはまだ見ていないだけかもしれません。
考えてみましょう
あなたが今、何もできないと感じているその場所で——それでも心の中で問い続けていることがあるとしたら、その問いはどこへ向かっているでしょうか。
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