何もできなくても、あなたは「わたしの民」と呼ばれている

何もできなくても、あなたは「わたしの民」と呼ばれている

孫のこと、息子のこと。心配しているのに、何もできない。その無力感を、誰にも打ち明けられないまま眠れない夜がある。「役に立てた頃は、ここにいていいという感覚があった」——その感覚が少しずつ薄れていくとき、自分はどこにいるのだろうと思う。あなたの存在は、何かできるかどうかにかかっているのだろうか。

「彼女は私の妻ではない。私は彼女の夫ではない。」

「私は行って、はじめの夫に戻ろう。あの時は今よりも私は幸せだったから。」

「わたしの民」「愛されているもの」

目次

「幸せにしてくれる何か」を、ずっと探していた

ホセア書という聖書の書物に、一人の女性が登場します。

彼女は夫のもとを離れ、別の恋人たちのところへ行きます。幸せにしてくれそうだったから、そちらへ行った。それだけのことです。

やがて道が塞がれます。追い求めても、たどり着けない。そのとき彼女は言います。「はじめの夫に戻ろう。あの時は幸せだったから」と。

ここで少し立ち止まると、気になることがあります。

新約聖書の放蕩息子は、帰るとき、こう言いました。「私は罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と。

でもこの女性は、そういうことを言いません。ただ「あの時は幸せだった。だから戻ろう」と言う。

彼女が求めているのは、夫との関係そのものではなく、「幸せにしてくれる何か」です。今より良いものがあればそちらへ行き、なければ以前の場所へ戻る。求めているものが、いつでも別の何かに取り替えられる。

でも、取り替えられない言葉があった

そこで夫が語りかけた言葉があります。

「わたしの民」「愛されているもの」。

これは、何かをうまくやれたから与えられる言葉ではありません。役に立ったから呼ばれる名前でもない。道を外れ、別のものを追い求め、戻ってきた者に向かっても、その言葉は変わらず語られています。

海の表面は波が立ちます。でも深いところは静かです。稲穂は風になびきます。でも根元は飛んでいかない。

立場が変わり、体力が変わり、できることが変わっていく。でも一番根元のところに、その声がある。何かを達成したかどうかより、もっと深いところに。

「ただそこにいるだけ」が、周縁ではない

孫が苦しんでいる。何もできない。息子は頑張っている。口を出すこともできない。祈るしかないとわかっていても、「祈るしかない」が答えだとは、どうしても思えない。

その思えなさは、正直な場所だと思います。答えを急ぐことはしません。ただ、ホセア書の神が民への道を塞いだのは、罰のためではありませんでした。「幸せにしてくれる何か」を交換し続ける場所から、関係そのものへ引き戻すためでした。

何もできないまま、ただそこにいる。その沈黙の場所がどういう場所なのか——この古い書物はまだその問いの中にいます。

何をしたか、何ができたか、誰かの役に立てたか。そういうことを抜きにして、ただそこに存在することの根元に——「わたしの民」「愛されているもの」という声がある、とこの古い書物は言っています。

それが、揺らがない根っこの話です。

ひとつの問い

何もできなかった、何も言えなかった、ただそこにいただけ——そのような場所にいた自分のことを、この古い書物はどう見ているのだろう、と思うことがあるかもしれません。

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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