誰かには言えるのに、自分自身には信じられない何かがある——そんな感覚を抱えていませんか。
「もう少し整ったら」と思いながら、その「整った状態」がなかなか来ない。
そんな感覚を、ずっと抱えているかもしれません。
大祭司は再びイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子キリストですか。」するとイエスは言われた。「私はそれです。人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなた方は見ることになります。」(マルコによる福音書14章より)
もう少し実績が出てから。
もう少し準備が整ってから。
もう少し状況がよくなってから。
そう思いながら待ち続けることには、ある種の誠実さがあるように見えます。
「まだ名乗るにはふさわしくない」という感覚は、謙虚さと、区別がつきにくい。
そんなときに、一つの場面が静かに並走してきます。
本文
最もふさわしくない場所で、名乗った
大祭司の尋問の場面です。
イエスの周囲には、不利な証言が次々と積み上げられています。
その一つひとつは互いに食い違っていました。
それでも全体は、彼を追い詰める方向に働いていました。
自らの身を守ることも、証言に反論することも、彼はしませんでした。
「あなたはキリストですか」と問われたとき、この状況で「私はそれです」と言える根拠は、どこにもありませんでした。
証明は終わっていません。
状況は整っていません。
この直後に待っているのは、唾をかけられ、拳で殴られ、十字架へと続く道です。
それでも彼は言い切りました。
「私はそれです。」
最も証明されていない場所で。
最もふさわしくない状況で。
名乗ることは条件が揃ってからでなければできない——そう思い込んでいたとすれば、この場面はその前提を静かに崩します。
目の前ではなく、その先を見ていた
では彼は、なぜそこに立てたのか。
「人の子が神の御座の右に着き、天の雲に乗ってくるのをあなた方は見ることになります。」
尋問の場でイエスが語ったのは、目の前の状況についてではありませんでした。
十字架のさらに向こう側——救いが完成し、もう一度来られるその日のことでした。
大祭司の問い、周囲の罵り、これから始まる暴力。
それらは確かに目の前にありました。
でも彼の目が向いていたのは、その先でした。
向こう側が見えていたから、目の前の理不尽を引き受けることができた。
それは逃避ではなく、根拠のある立ち方でした。
整っていない場所で名乗ることができたのは、向こう側が見えていたからです。
あなたが今、そこに立っているとすれば。
向こう側が見えていたから、整っていない場所でも立てた——あなたがすでに誰かに渡しているものは、そこから来ているのかもしれません。
誰かに何かを渡せている自分がいる——それはすでに答えの一つかもしれません。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
「私はそれです」——この一言を読んで、僕はしばらく動けませんでした。
証明が終わった後ではなく、最も不利な場所で名乗るとは、どういうことなのか。
整っていないから待つ、というのが当たり前だと思っていたのですが、この場面はその「当たり前」に静かな問いを投げてくる気がします。
向こう側が見えているかどうかで、今いる場所での立ち方が変わる——そういうことなのかな、と。
今日の問い
あなたが「もう少し整ったら」と思っているとき、その先に何が見えていますか。
《参考礼拝メッセージ》
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