召しに従って歩んできたはずなのに、ある日ふと「これは何のためだったのか」という問いが浮かぶことがあります。
正しくあり続けてきた場所で、その正しさの根拠が見えなくなる瞬間——あなたにも、そんな夜がありますか。
大祭司は再びイエスに尋ねた。「あなたはキリスト、ほむべき方の子ですか。」するとイエスは言われた。「私はそれです。」——マルコの福音書14章
召しの場所で問われたもの
最もその言葉が似合わない場所で
人は長い時間をかけて、何かを誠実に積み上げることができます。
信仰であれ、仕事であれ、人との関係であれ、積み上げた時間が長くなるほど、ある問いが静かに近づいてきます。
「これは、何のためだったのか」と。
その問いは責める声ではなく、ただそこに座っているような問いです。
答えを急かしてはこない。
でも、無視することもできない。
訴えられ、反論も弁解も一切しないまま、イエスは尋問の場に立っていました。
嘘の証言が積み重なり、不利な言葉が次々と並べられていく場所です。
この先には十字架があります。
唾をかけられ、殴られ、「誰が打ったか当ててみろ」とからかわれる場所です。
その場で大祭司が問います。
「あなたはキリストですか。」
ここはどう考えても、「私はキリストです」という答えが返ってくるべき場所ではありません。
この問いに答えることは、死刑を確定させることと同じです。
人々の期待する答え方をするなら、ここは黙っておくか、否定しておくべき場所です。
しかしイエスは答えました。
「私はそれです。」
最もふさわしくない場所で、最も核心的な自己定義を語りました。
燃える柴の前で聞いた、あの名前
「私はそれです」——この言葉の後、イエスはさらに語り続けました。
「人の子が、力ある方の右の座につき、天の雲に乗ってくるのをあなた方は見ることになる。」
裁きの場に立ちながら、イエスが見ていたのは目の前の大祭司だけではありませんでした。
十字架のさらに向こう側——神の栄光の座に迎えられ、もう一度雲に乗って来る、その日のことを見据えながら、この言葉を語っていた。
イエスが答えたギリシャ語「エゴー・エイミ」は、「私はある」という形の言葉です。
モーセが燃える柴の前に立ったとき、神はご自身の名をこう告げました。「私はある。」——あのときと同じ形です。
大祭司の前で「私はそれです」と語ったイエスは、人々の審判の場に立っていたのではなく、燃える柴の前に立つように、神の前に向かって語っていました。
外側の承認も状況の有利不利も、その言葉の根拠には関係していませんでした。
大祭司の問いが、その尋問の場をそっくりそのまま神との対面に変えたように、今あなたが立っているその場所でも、問いが来ています。
「あなたは誰ですか」と。
それは責める声ではなく、最も深いところから来る問いです。
その問いの前に立っていること自体が、すでに召しの場所にいるということです。
その問いを抱えたまま——あなたはもうその言葉を持っています。私はそれです。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
「私はそれです」という言葉を今日読んで、すごく静かな場面だったんだなと思いました。
あれだけ不利な状況で、怒りも弁解もなく、ただその一言。
正直に言うと、あの場所でそう言える根拠が何だったのか、僕にはまだうまく言葉にできません。
でも、外側の状況がどれだけ反対を向いていても、自分が誰であるかを知っているということが、あの答えにはあったのかなと思います。
今日の問い:今の自分の場所で「私はここにいる」と言えるのは、何を根拠にしているでしょうか。それとも、まだその根拠を探しているところでしょうか。
《参考礼拝メッセージ》
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