孫のことを思いながら、眠れない夜がある。何もできないという無力感を抱えながら、それでも朝が来て、手を動かして一日を過ごす。そんな毎日に、意味はあるのだろうか。聖書はそれに何か言えるのだろうか。
「このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。こういうわけですから、この言葉をもって互いに慰め合いなさい。」
(Ⅰテサロニケ4:17-18)
「どうせ変わらない」という思いを知っている人たちへ
パウロがテサロニケの人々に手紙を書いたとき、彼らは三重の苦しさの中にいました。外からの迫害。「もっと楽にすればいい」という誘惑。そして内側から湧いてくる、冷ややかな投げやりな思い。
その投げやりな思いというのは、こういうものです。「ずっと信仰の歩みを続けてきた。でも何も変わらない。期待していたことは起こらない。どうせこのままだ。」
それは信仰の問題だけではありません。長く続けてきた何かが、少しずつ手を離れていくときに感じるものと、どこかで重なります。
そのような人々に向けて、パウロは言います。「あなたたちの歩みには、よりどころがある。土台がある。」
そしてそのよりどころとは、人間の努力や成果ではなく、神ご自身がなさることだと語ります。
何もできない場所に立っている人へ
パウロが語る希望の中に、「眠った人々」という言葉が出てきます。信仰の歩みを続けながら、待ち望んでいたものを見ることなく、先に死んでしまった人たちのことです。
この人たちは、志半ばで終わったように見えます。何も成し遂げられなかった、報われなかった——そう思われてしまいがちな人たちです。
しかしパウロは言います。「いや、違う。」
その人たちの生涯は、消えてしまったのではない。神の手の中で、完成へと向かっている。
これは「頑張れば報われる」という話ではありません。神ご自身が来られる。号令とラッパの響きの中に、神ご自身が降ってくる。その日、先に逝った人々もよみがえって、地上で生きている者たちと一緒に主と会う。その完成は、人間の何かによって実現するのではなく、神ご自身の現実として訪れる。
だからこそパウロは言うのです。「落ち着いた生活をして、自分の手で働きなさい。」
浮き足立たなくていい。特別なことをしなくていい。華々しくなくていい。今与えられている歩みを、そのまま続けなさい。なぜなら、その歩みは神の手の中で完成していくから。
「今していることは、無駄にならない。」
祈ることしかできない夜も。何も言えないまま心配を抱えている日も。手を動かして、ただ一日を過ごしたように見える時間も。神の手の中に置かれているのなら、それは消えてしまうものではない。
よりどころとは、状況を変える力ではありません。状況の外側にある、神の現実です。その現実を土台にして、今日の歩みを積み重ねていく。それが、この言葉の語りかけです。
考えてみましょう
今、自分には何もできないと感じているとき——それでもそこにいて、そこに立ち続けていること自体が、神の手の中に置かれているとしたら、あなたはその歩みをどのように受け取りますか。
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