何もできない、という無力感を抱えたまま、それでも今日を生きている。そんな日が続いていないでしょうか。先の見えない状況の中で、「これでいいのか」と自問しながら手を動かし続けている——そういう場所に立つあなたに、今日は一人の人物のことを書きたいと思います。
「カレブがモーセの前で民を静めて言った。私たちはぜひとも登っていってそこを占領しよう。必ずそれができるから。」
「どうやって」がわからないまま、それでも今日を生きた人がいました。
12人の偵察者が、約束の地を見て帰ってきた日のことです。彼らは全員、同じものを見てきました。豊かな土地と、そこに住む強大な民。誰一人、良い情報だけを持っていたわけでも、悪い情報だけを持っていたわけでもありません。全員が同じ現実を目にしていました。
「イナゴに見えただろう」という声
10人はこう言いました。「私たちには自分がイナゴのように見えたし、彼らにもそう見えただろう。」これは弱さではありません。正直な観察です。自分たちの力を冷静に測ったとき、相手との差は歴然としていた。「私たちには無理だ」——その言葉は、現実をよく見たからこそ出てきた言葉でもありました。
民はどよめきます。「あんなに素晴らしい土地なのに、どうやって入ればいいのか。わからないなら、引き返そう。」彼らが出した答えは、エジプトへ戻ることでした。自分たちの頭で考えられる範囲で、「できること」を選んだのです。
それは責められることでしょうか。「どうやって」がわからないまま前へ進むのは、怖いことです。全体の地図がなければ、一歩目を踏み出す根拠がない。そう感じるのは、ごく自然なことだと思います。
カレブが持っていたのは「確信」ではなく「前提」だった
では、カレブだけが特別な勇気を持っていたのでしょうか。そうではありませんでした。彼が持っていた情報は、他の11人と何も変わりません。城壁も見ました。強い民も見ました。それでも「必ずそれができる」と言えたのは、なぜか。
彼が立っていたのは、一つの前提の上でした。「これは神が与えようとしている地だ。」ただそれだけです。「どうやって」はまだわかっていません。いつ、どう入れるのかも知らない。でも、神がそこへ向かって導いておられるなら、「できる」という結論は、力や知識からではなく、その前提から来ていました。
イスラエルの民が荒野を歩んできた歩みを思い返すと、面白いことがわかります。彼らは一度も、全体の地図を渡されていませんでした。雲の柱が動けば進む。止まれば留まる。その日の一歩だけを与えられ、翌日の一歩はまだ知らないまま、ずっと歩いてきたのです。
「先が全部わかってから進む」というのは、実は神の導きの形ではありませんでした。一度に一歩だけ。それがずっと続いてきた歩みの形でした。
「どうやって」を持たないまま、ここに立っている
何もできない、と感じている夜があるとしたら。心配を言葉にできないまま、手を動かして今日をやり過ごしているとしたら。「これが答えなのか」という問いを持ちながら、それでも今日という日をここで生きているとしたら。
「どうやって」がわからない場所は、地図の外ではありません。イスラエルの民も、カレブも、ずっとそこにいました。一歩先しか見えないまま、それでも今日という日をそこで過ごしてきた人たちがいた。
何もできない場所にいることと、神の手の届かない場所にいることは、同じことではないかもしれません。
今日ここにいる、ということ。それがすでに、導きの中にあるのかもしれません。
問いとして残しておきたいこと
「どうやって」がまだわからない場所で、あなたは今、どこに立っているでしょうか。
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