気づいたらここにいた——ヨセフが人払いをして泣いた部屋で

気づいたらここにいた——ヨセフが人払いをして泣いた部屋で

召しとは何か、と考えるとき、颯爽と歩き出すイメージが浮かびやすいですよね。
でも聖書には、まったく別の入り口から始まった人物がいます。
あなたは「自分で選んだわけでも、完全に選ばされたわけでもない場所」に立った経験がありますか。
あるいは今まさに、そこに立っているかもしれません。

「私は弟のヨセフです。あなた方がエジプトに売ったヨセフです。……神は命を救うためにあなた方より先に私を遣わしてくださったのです。」(創世記45章)

目次

その場所に立つことに、意味はあるのか

「自分で選んだとは言い切れない。でも、誰かのせいにもしきれない。」

そういう場所に人は立つことがあります。
どちらにも着地できないまま、それでも日々は続いていきます。

聖書に、同じ場所に立った人物がいます。
ヨセフです。

大臣が、人払いをして泣いた

ヨセフはエジプトの大臣になっていました。
その地位は、兄たちに奴隷として売り飛ばされるところから始まっています。
長い時間をかけて、彼はエジプトの国政を動かす人物になりました。

その大臣が、穀物を買いに来た兄たちを前に、周りの人間を全員外に出します。
一人残らず、外へ。
そして声を上げて泣きながら、言います。

「近寄ってください。私は弟のヨセフです。あなた方がエジプトに売ったヨセフです。」

大臣としての威厳でも、怒りの対決でもありませんでした。
誰にも聞かせない言葉を、最も近しい人たちだけに語った瞬間でした。

同じ事実が、まったく違う言葉になった

「あなた方がエジプトに売ったヨセフ」という言葉は、恨みの言葉にもなりえたはずです。
あの時あなた方がしたことで、私はどれだけの苦しみを経たか——そう続けることもできました。

でもヨセフはその直後に、こう語ります。
「神は命を救うためにあなた方より先に私を遣わしてくださったのです。」

同じ一つの事実が、まったく違う言葉として語られました。
「売られた」のではなく、「遣わされた」。
恨みの物語ではなく、派遣の物語として。

最悪の出来事が消えたわけではありません。
ヨセフが売り飛ばされた事実は変わりません。
変わったのは、その出来事を包む文脈でした。
「神の最善のための一つの出来事として受け止める」という、新しい文脈です。

望まない場所に立っているとき、「流されたのか、遣わされたのか」という問いは簡単には消えません。
その問いに、ヨセフも即座に答えを持っていたわけではないはずです。
エジプトに売られた日からあの部屋で泣いた日まで、長い時間がありました。

でも、人払いをして、誰もいない静けさの中で語られたあの言葉は、同じ問いを抱えて今いる場所に立つ人にも、届くかもしれません。
「売られた」ではなく——「遣わされた」。

AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】

ヨセフが周りの人を全員外に出した、という場面が頭から離れないです。
あの静けさの中でだけ言えた言葉があった、ということですよね。
大勢の前では語れなかった言葉が、近しい人たちの間でだけ届いた。
そのことが、不思議と胸に来ます。
今日の問いです——今のあなたが「遣わされた」と感じている部分と、「流された」と感じている部分、どちらが正直なところ大きいですか。あるいは、まだどちらとも言えない夜が続いているでしょうか。

《参考礼拝メッセージ》

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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