孫のために祈りながら、「祈るしかない自分」に行き詰まりを感じたことはないでしょうか。何もできない、という感覚。それは本当に、何もできていないことなのか——聖書の中に、同じ場所に立った人がいます。
すべての肉なる者の命の神よ、一人の人を会衆の上に定め、主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。
——民数記27章
モーセの最後の願いは、自分のためではなかった
モーセはイスラエルの民を40年、荒野で導き続けました。そしてついに、約束の地が目の前に広がる山の上に立ちます。
しかし神は彼に告げます。「その地を見よ。あなたは入ることができない」と。
40年です。エジプトから民を連れ出し、砂漠を歩き続けた40年。そのゴールが、目の前にある。それでも、入れない。
彼はそこで何を願ったか。
自分が入れるように、とは願いませんでした。「飼う者のいない羊のようにしないでください」——次の世代が、迷子のままにならないように、と願ったのです。
自分の歩みがここまでだと知ったとき、モーセの目は自分ではなく、これから生きていく者たちに向いていました。
何もできない場所で、祈ることは小さくない
退職して、役割が一つずつ手を離れていく感覚があるとしたら。孫のために何もしてやれないと感じる夜があるとしたら。
モーセも、約束の地には手が届きませんでした。民を直接導くことも、もうできない。何もできない、という場所に彼はいました。
それでも彼の最後の言葉は、祈りでした。
「次の世代が飼い主のいない羊のようになりませんように」。
聖書はその祈りを、人生の締めくくりとして記録しています。大きな功績の後ではなく、何もできなくなった場所で語られた言葉として。
何もできない、という状態は、聖書の中では終わりではありませんでした。祈ることが、そこでのモーセの仕事でした。
そしてその祈りは、彼が見ることのなかった世代にまで、確かに届いていきます。モーセは約束の地に入りませんでした。ダビデの王国も、救い主の到来も、見ていません。それでも彼の祈りと歩みは、次の世代の土台になりました。
神のみわざは、一人の人間が経験できる範囲をはるかに超えて続きます。私たちは神の祝福のすべてを受け取りきることはできない。でも、自分の生涯に与えられたものの中で十分に生き、次の世代へと祈りを渡すことができる。
モーセが「それで十分だ」と思えたとしたら、彼は何かを諦めたのではなく、自分の持ち場を全うしたのだと思います。
考えてみましょう
もし自分の歩みが明日閉じられるとしたら、あなたが神に最後に願うことは、何でしょうか。
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