祈り続けているのに、何も変わらない。それでいいのだろうか

毎日、誰かのために心を砕いて、祈って、見守っている。
それなのに、状況は変わらない。
「私のやっていることに、意味はあるのだろうか」
そんな問いが、ふとよぎることはありませんか。

私はあなたの若かった頃の誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地での私への従順を覚えている。

わたしの民は二つの悪を行った。一つは湧き水の泉である私を捨てたこと。二つ目は多くの水ため、水をためることのできない壊れた水ためを自分たちのために掘ったこと。

誰も覚えていなくても、神は覚えている

神様は記憶力が抜群です。
それも、人間の「記憶」とはスケールが違います。

エレミアが生きた時代、神はイスラエルの民にこう言いました。
「あなたたちの若かった頃の誠実を、私は覚えている」と。

「若かった頃」とは、千年以上も前のことです。
エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、砂漠を歩き始めたあの日のこと。
水も食べ物もない荒野で、それでも「あなたが神です」と言い続けた、あの頃のこと。

誰もそんな昔のことは覚えていません。
歴史の教科書の中の話です。
でも神は「覚えている」と言う。

これはただの励ましの言葉ではありません。
神は、目に見えないところで積み重ねてきた歩みを、千年単位で覚え続ける方だということです。

誰かに気づかれなくても、表立って評価されなくても、それでも誠実に続けてきたこと。
神はそれを、ひとつも見落とさずに覚えています。

「問い続けること」が、信仰の核心

ところがエレミアの時代、民はある大切なことをやめてしまいました。
神に「なぜですか」と問うことを、やめてしまったのです。

代わりに何をしたか。
自分たちで解決しようと、あちこちに水ためを掘り始めました。

水のたまらない、壊れた水ため。
でも彼らは掘り続けた。
こっちにも、あっちにも。
「もっと穴を掘れば、何とかなるかもしれない」と思って。

これは他人事ではありません。
誰かのために「何かしなければ」と焦って、あれもこれもと手を出す。
でも状況は変わらない。
また別の手を探して、また動く。

それが悪いことだとは言いません。
ただ、その忙しさの中で、神への問いが消えていないか。
「神様、なぜこうなっているのですか。あなたはどこにおられますか」という言葉が、心から出なくなっていないか。

エレミア書が語るのは、こういうことです。
困難の中で神に「なぜですか」と問い続けることは、ふさわしいことだ、と。
答えが来なくても、問い続けることそのものに意味がある、と。

泉は、問いの先にあります。
自分で掘った水ための中にはありません。

毎日、心の中で誰かのことを神の前に持ち出して、「なぜですか」「どこにおられますか」とつぶやいている。
それは、信仰が足りないのではありません。
それこそが、信仰の核心に触れている姿です。

考えてみましょう

「問い続けること」と「自分で何とかしようとすること」の間で、今の自分はどちらに引っ張られているでしょうか。

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。
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