復活の主は、あなたの「真ん中」に立っている

誰にも気づかれないまま、今日も黙々と動いた。
家族のことを祈りながら、でも何も変わらない日が続く。
「信じているのに、届いているのだろうか」——そう感じたことはありませんか。

聖書の言葉に、こんな場面があります。

「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた」

目次

弟子たちも、信じきれなかった

復活の日の夜のことです。

弟子たちは集まって、「イエスを見た」「空の墓だった」とざわざわ話し合っていました。

そこへ、イエスが現れます。

でも弟子たちは、喜ぶどころか震え上がりました。「幽霊だ」と思ったのです。自分たちの願いが強すぎて、見たいものを見てしまっているだけではないか——そう疑ったのです。

信じたいけれど、信じきれない。祈っているのに、本当に届いているのか。

この揺れは、弟子たちだけのものではありません。聖書は、その正直な混乱をそのまま記録しています。

イエスはそんな弟子たちに向かって、こう言います。

「私の手を見なさい。足を見なさい。触れてごらんなさい。霊なら肉も骨もない。でも私にはある。まさしく私です。」

そして、「何か食べるものはありますか」と聞いて、魚を一切れ、口に入れて食べた。

隅でも、隠れてでもなく

この場面で、私が何度読んでも心に残る言葉があります。

「真ん中に立たれた」という一言です。

隅でもない。そっと様子を見ているのでもない。弟子たちが輪になって話し合っているその真ん中に、イエスは立った。

誰かに見てもらえなくても、評価されなくても、あなたがそこにいることには確かな意味があると——復活の主が真ん中に立つ姿は、そのことを静かに示しているように思えます。

エルサレムから今日まで、つながっている

イエスはこの夜、もう一つのことも弟子たちに伝えました。

旧約聖書に書かれていた「来るべき救い主」の約束は、自分において全部成就した。そしてこの救いの知らせは、エルサレムから始まって、あらゆる国の人々に伝えられていくのだ、と。

事実その通りになりました。

あの夜、震えていた弟子たちから始まった知らせは、時代と国境を越えて、今日ここまで届いています。

地道に、静かに、連なって。

あなたが今ここで信じていることも、その長い連なりの一部です。目に見えなくても、誰に気づかれなくても、あなたがここにいることは、その連なりの中に確かに編み込まれています。

弟子たちが「幽霊ではないか」と疑ったように、「本当に意味があるのだろうか」と感じる日があっても、おかしくない。それは正直な反応です。

でもあの夜、イエスは逃げませんでした。疑っている弟子たちの真ん中に、そのまま立ちました。「なぜ取り乱すのか」と静かに語りかけながら。

今日も、その方は同じように立っています。あなたの日常の真ん中に。

考えてみましょう

自分が担っていることの意味が見えにくくなる時、あなたの「真ん中」に立っているのはどなたか——今週、少しだけ思い返してみるとしたら、どんな場面が浮かびますか。

参考礼拝メッセージ

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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