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昨日まで持っていたものが、もうない。その喪失を抱えたまま、それでも何かできることを探して動き続ける——そんな朝が、あなたにもあるかもしれません。あの女性たちも、そうでした。
恐れてはいけません。あなた方が十字架につけられたイエスを探しているのを、私は知っています。
「せめてもの思い」でできることをした女性たち
マグダラのマリアともうひとりのマリアが墓に向かったのは、夜明け前のことでした。
イエスが十字架で死んだのは、その前日。ふたりは安息日を、悲しみの中で過ごしました。一緒に食事をした人が、もういない。その光景が頭から離れない。これからどうすればいいのか、何もわからない。
それでも女性たちは動きました。「せめてもの思いで」墓に向かいました。
彼女たちにできることは、ひとつだけでした。封印された墓の石をどかして、イエスのなきがらに会うこと。それが精一杯でした。蘇らせることなど、誰にもできない。できないとわかっていながら、それでも何もしないではいられなかった。
その気持ちが、わかる気がします。
「娘が大きくなったら、また働けるかもしれない。」「名古屋まで出れば、仕事があるかもしれない。」自分の手が届く範囲で、できることを探す。それが解決策でないとどこかで知りながら、それでも動かずにはいられない。あの女性たちの「せめても」と、どこか重なります。
「ここにはおられません」
墓に到着した女性たちが目にしたのは、自分たちが想像していた光景とは全く違うものでした。
大きな地震。石が転がされている。御使いが輝く姿でそこに座っている。彼女たちには、これを用意する力はありませんでした。これは、上から「もたらされた」ものでした。
御使いはこう言います。「恐れてはいけません。あなた方が十字架につけられたイエスを探しているのを、私は知っています。ここにはおられません。」
「探しているのを、知っています。」
彼女たちが何を探しているか、御使いは知っていました。名前も役割も関係なく、「あなたが何を探しているか」を、知っていた。
そして「ここにはおられない」と言います。これは冷たい拒絶ではありません。「あなたが探していたものの先に、もっと大きな現実がある」という言葉です。自分たちの手で用意できたものの先に——自分たちがもたらすことのできない現実が、すでに起きていた。
「見てごらんなさい」
「納めてあった場所を、見てごらんなさい。」
御使いはそう言いました。何もない場所を、見なさいと。それがすべての始まりでした。
女性たちはその空の場所を見て、初めてわかったのだと思います。自分たちが探していたものは、もうそこにはない。でも、それは失われたのではなく——もっと先へ行っていたのだと。
「あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお会いできる。」
死んで葬られたキリストではない。今も生きて、彼女たちより先に歩いているキリストが、待っている。
これは女性たちが準備したものではありません。努力して手に入れたものでもありません。「神がもたらした現実」に、彼女たちは招き入れられたのです。
あなたが探しているものを、神は知っています。名前のない役割の中にいても、眠れない夜を過ごしていても——「探しているのを、私は知っています」という言葉は、あなたに向けられた言葉かもしれません。
考えてみましょう
「あなたが探しているのを、私は知っています」と言われたとき——あなたが本当に探しているものは、何でしょうか。
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