愛したいと思っています。
それは本当のことです。
でも、心の奥を正直に見ると、100%ではない瞬間があります。
人前では「良かったですね」と言える自分がいて、その言葉が嘘でもないのに、なぜか後ろめたい——そういう感覚が、あるかもしれません。
それは冷たさのせいでしょうか。
あるいは、その後ろめたさがどこから来るのか、まだわかっていないのかもしれません。
愛には偽りがあってはならない。……喜ぶものとともに喜び、泣くものとともに泣きなさい。
愛は、なじんでいくものだった
誰かが「良かったですね」と言う。
口ではそう言っている。
でも心の中は、100%そうではない。
正しくあろうとするほど、そのずれが見えてきます。
「本当に良かった」と思っている部分と、「いいなぁ、あの人は」と思っている部分が、同時にある。
泣いている人のそばにいるとき、かわいそうだと思う気持ちと、「自分じゃなくてよかった」という気持ちが、混じっている。
それを知ったとき、愛には偽りがあってはならないという言葉が、突き刺さります。
自分は結局、愛していないのではないか、と。
まだ、どこにもつながっていない
整えられたオリーブの台木に、野生の枝が押し当てられています。
枝は切られ、台木に固定されています。
でもその瞬間、命はまだ流れていません。
枝は枝のまま、台木は台木のまま、ただ押し当てられているだけです。
接ぎ木師はその継ぎ目をテープで巻き、蝋で固めます。
それは命が流れ始めるまでの間、継ぎ目を守るためです。
でも本当のつながりは、テープや蝋がつくるのではありません。
何もなくなった後に残るもの
やがてテープははがれ、蝋も落ちます。
外から固めていたものが、何もなくなります。
そのとき初めて、つながっているかどうかが露わになります。
樹液は、急かしても流れません。
枝が台木になじんでいくのには、時間がかかります。
それが接ぎ木というものです。
偽りのない愛は、一瞬で完成しません。
偽りのない愛が完成するのは、正しくなれた後ではありません。
樹液がにじんでいる、その継ぎ目の只中が、すでに愛の現場なのかもしれません。
押し当てられた継ぎ目で、樹液がじっとにじんでいる。
その時間の中に、誰かがいます。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
接ぎ木の話、僕にはじわっときました。
「本当に良かった」と思っている自分と「いいなぁ」と思っている自分が、同時にいてもいいんだって、少し息ができた気がします。
100%じゃないから偽りだ、と断定しなくていいかもしれません。そのずれを知っていること自体が、出発点なのかもしれません。
テープも蝋もなくなった後に何が残るか——それは自分を責めるためじゃなくて、自分の継ぎ目がどこにあるかを知るために。
《参考礼拝メッセージ》
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