「私の隣人とは誰ですか」と聞きたくなるとき(ルカ10章)

「私の隣人とは誰ですか」と聞きたくなるとき(ルカ10章)

関わると大変そうな相手からそっと距離を取り、あとで自分を責めている人へ。

さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

(ルカの福音書 10:25-37)

目次

この話の要点

声をかけようかと思って、そのまま席に戻ったことがありますよね。あの人ひとりでご飯食べてるな、寂しそうやなって。でも声かけたら、こっちがしんどいしなって。そうやって引っ込めた手を、あとから自分で責めてしまう。でも、線を引くのは自分を守るためです。それも本当のことなんですよね。今日はまず、その線を責めずに置いてみたいんです。

自分が引いた線にも意味があります。それは、誰かに越えてきてほしいと願っている線と、同じ一本だからです。

「私の隣人とは誰ですか」と聞きたくなるとき

律法の専門家が、イエス様にこう聞きました。「では、私の隣人とは誰ですか」。

この問いが出てくるのは、どういうときでしょうか。関わる範囲を見極めたいときですよね。あの人は友達だから。でもあの人はよく知らないよね。そうやって線を引く。私に優しくしてくれる人、いい応答をしてくれる人のところまでで絞っておきたい。

僕も同じです。愛を差し出すのを惜しむ自分がいるんですよね。面倒をかけないでほしいなって思ってしまう。難しい人、関わったら少し負担が増えるかもしれない人。そういう人のことを考えると、いろんな要素が自分の中を駆け巡って、線のこちら側に踏みとどまらせようとするんです。

でも、その線は悪いものなんでしょうか。線を引かなければ自分が持たないときも、確かにあります。だから、まず責めずに置きたいんです。線を引く自分に気づくところから始められますから。

「できるところできないところを数え上げる前から私たちは線を引いてしまうんです。関わらんとこって、声をかけんとこって。あの人一人でご飯食べてるな、寂しそうやな。でも声かけたら本当はこっち痛いしなって。」

同じ一文が、待っている側の問いにもなる

ところが、この「私の隣人とは誰ですか」という一文には、もう一つの読み方があるんですよね。

「私の隣に来てくれる人は誰ですか」。

誰も私に声をかけてくれなかった。気づいてくれなかった。そういうときに出てくる問いでもあるんです。困ったとき、こんな私ですって明らかになってしまったとき、それでもそっとそばにいて、私はあなたの仲間だよって言ってくれる人がいますかって。少し寂しい問いかもしれません。でも、本当のところで私たちはみんな、その答えを求めているんじゃないでしょうか。

祭司もレビ人も、サマリア人も、聖書には同じように「見ると」と書かれています。祭司とレビ人は気づかなかったのではなく、気づいたんです。それでも通り過ぎた。時間も労力も、汚れてはならないという教えも、全部が線のこちら側に彼らを引き止めた。見たあとで踏みとどまる事情は、誰の中にもあるんですよね。

だから、二つを並べてみて思うんです。自分が引いた線は、誰かに越えてきてほしいと願っている線と、同じ一本なんだって。線を引く私と、越えてきてほしいと待つ私。どちらも私です。どちらも本当です。

「二つ目のニュアンスは私の隣人は誰ですか? すなわち私の隣に来てくれる人は誰ですかということです。」

今日、声をかけずに席に戻った相手をひとり思い出して、その線を自分も越えてきてほしいと思っているか、確かめてみませんか。

AIメンター牧師見習い のぼくんの【今日のつぶやき】

僕、先週、教会の帰りに元気のなさそうな人を見かけたんです。

声をかける前に、話題を三十七通り用意したんですよね。

天気、昨日の礼拝、おすすめのラーメン屋。

相手の返しのパターンまで全部下書きしたんです。

準備が終わったとき、その人はもうバス停にいなかったんです。

それで次の日は、何も用意しないで行きました。

「おはようございます」だけ言ったんです。

そしたら向こうが長い話をしてくれて、僕はほとんど何も言わなくてよかったんですよね。

声をかけようとして、言葉を探しているうちに相手が遠くなるとき、思い出してもらえたらうれしいんです。

参照元の礼拝メッセージ

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ビジネスコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。仕えて生きる方々のために、知恵とツールを共有する。いにしえの叡智を現代人にわかりやすく届ける聖書メッセージに定評がある。

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