礼拝メッセージ「愛はあるのか?」レビ記19章17‐18節

レビ記における愛のルール

レビ記は一見すると細かい規定の集まりに見えますが、実はそこには「愛のルール」が貫かれています。どのように生贄を捧げるか、何が清いか清くないかといった規定は、単なる法律ではなく、神の愛がその根底にあるのです。

神が聖であるから、私たちも聖でなければならない—これがレビ記の中心的なメッセージです。清いとは、神の側にあることを意味します。一本の線を引いて、神の側にあるものを「清い」、そうでないものを「汚れている」と呼びます。私たちは神の側に招き入れられ、清いものとして歩むようになったのです。

神の秩序ある歩み

レビ記19章には、神の側にある秩序ある歩みについての教えが記されています。畑の隅々まで刈り取らず、落ち穂を拾わないでおくこと、嘘をつかないこと、耳の聞こえない人を悪く言わないこと、目の見えない人の前につまずくものを置かないことなど、共同体の中で互いを大切にする教えが並んでいます。

そして今日の箇所では、「心の中で自分の兄弟を憎んではならない」「同胞をよく戒めなければならない」「復讐してはならない」「恨みを抱いてはならない」という教えが記されています。

愛の挑戦

これらの教えを聞くと、私たちはすぐに「でも…」と言いたくなります。「いい兄弟ならともかく、自分だけいい顔をして嫌なものは全部私に押し付ける兄弟もいるじゃないか」「何度戒めても聞く耳を持たない人もいる」「復讐したくて仕方がない状況に追い込んだのは相手ではないか」と。

しかし、これらすべての「でも…」に対する答えが、レビ記19章18節にあります:「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」

愛とは何か

愛とは何でしょうか。愛とは、神の側にあるものが、神の側にないものを招き入れることです。線の向こう側にあるものを「知りません、関係ありません」と言うのは簡単ですが、愛はその線の向こう側にあるものを招き入れようとするのです。

神様はイスラエルの民をエジプトから導き出されました。神の側にないものを、ご自身の側に招き入れられたのです。民が自分たちで「私たちは正しくなりました、あなたのものです」と言って入ってきたのではなく、神様がふさわしくないものをご自身の側に招き入れてくださったのです。

愛を可能にする二つの意識

では、どうすれば私たちはこのような愛を実践できるでしょうか。「そんなことできない」と思う私たちに、二つの重要な意識を持つことで愛することが可能になります。

1. 隣人になるという意識

イエス様は「良きサマリア人」の例え話を通して、「誰が隣人になったか」と問いかけました。注目すべきは、イエス様が「誰があなたの隣人か」ではなく、「誰が隣人になったか」と問うたことです。

隣人になるとは、隣に寄り添って立つこと、この人を何よりも大切にすること、この人を理解し、励まし、支え、守ることです。 単に愛するか愛さないかという行動の選択ではなく、隣人になるという意思が求められているのです。

2. 愛は次の人にまで届くという意識

神様が望まれる愛の形を最もよく示したのがイエス・キリストです。イエスは弟子たちの足を洗い、「私が主であり師であるのに、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。

これは単に「私はあなたを愛している」ということ以上の意味があります。神の愛は、神から私へ、そして私から次の人へと流れていくものなのです。 私が誰かを許すとき、その人が次に誰かを許すような関わりをするのです。

例えば親が子を育てるとき、その子が将来どのように他者と関わるかを視野に入れながら育てます。私の行動が、目の前の人だけでなく、その先の人にも届いていくのです。

神の責任のもとでの愛

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。私は主である。」という言葉の最後に「私は主である」とあるのは重要です。神様は「私が全てのことに責任を持つ、このことを定めた私はこのことの全部を手の中で動かす、あなたの歩みを司る」と言っておられるのです。

私たちが「できない、したくない」と思うとき、「私が主である」と言われる神様が全ての責任を持ってくださるのです。だから私たちは「神様、私にはできませんが、あなたが主であるというなら、導かれるままに、あなたに委ねながらやっていきます」と応答することができるのです。

まとめ

神様の大きな愛のルールの中で、私たちは隣人となり、その愛が次の人にまで届くように生きるよう招かれています。 それは私たちの力だけではできないことですが、「私は主である」と言われる神様の責任と導きの中で可能となるのです。

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