毎日、誰かのために動いている。祈って、見守って、手を尽くしている。それでも何も変わらないように見える日が続く。「自分がここにいることに、本当に意味があるのだろうか」——そんな問いが、ふと胸をよぎることはありませんか。
聖書の言葉をひとつ、ここに置かせてください。
私の主、私の神よ。
(ヨハネ20章)
肝心なタイミングに、そこにいなかった人
トマスという人がいます。イエス様の12人の弟子のうちの1人です。真っ直ぐで、何でも鵜呑みにしない。自分で納得するまで確かめないと動かない。そういう人でした。
イエス様が十字架で死なれた後、弟子たちは怯えて部屋に閉じこもっていました。そこにイエス様が現れた。手の傷を見せ、脇腹の傷を見せた。「本物だ」と弟子たちは喜んだ。
でもトマスは、その場にいなかったのです。
なぜいなかったのか、聖書には書いていません。買い物だったのか、どこかへ出かけていたのか。理由は分からない。ただ「いなかった」という事実だけが残っています。
後から戻ってきたトマスに、仲間たちは口々に言います。「主を見た!」「復活されたんだ!」
でもトマスには、その場の空気が分からない。みんなが体験した瞬間を、自分だけが知らない。「その手の傷に自分の指で触れるまでは、信じない」と彼は言いました。
8日間、一人で抱えた
それから8日間が過ぎます。聖書にはその8日間のことが何も書かれていません。トマスが何を考えて、どう過ごしたのか。でもきっと、軽い8日間ではなかったはずです。みんなは「見た」と言っている。自分だけが「分からない」と立っている。その感覚は、じわじわと重くなるものだと思います。
8日後、イエス様はもう一度現れました。今度は、トマスがいる場所に。
「あなたの指をここに当てて、見なさい」と言われた。その言葉を聞いてトマスが口にしたのが、冒頭の言葉です。「私の主、私の神よ」。理屈ではなく、全部が溶けていくような告白でした。
分からないまま、ここにいていい
ここで大切なのは、イエス様がトマスを責めなかったことです。「なぜあの時いなかったのか」とも言わなかった。「8日間も疑っていたのか」とも言わなかった。ただ、もう一度来られた。
分からないまま8日間を過ごしたトマスのところへ、イエス様は来られたのです。
答えが出ないまま祈り続けている時間。「これでいいのだろうか」と思いながら見守り続けている時間。疑いや戸惑いを抱えたまま、それでもここにいる時間。そのすべてが、無駄ではなかったとここは語っています。
「分かったから集まるのではなく、分からないから集まって、本当かなと問い続けていい」——そのことを、トマスの8日間は静かに教えてくれます。
あなたが今、答えの出ないものを抱えているとしたら。それはトマスとまったく同じ場所に立っているということかもしれません。そしてイエス様は、その場所にも来られる方だということを、この話は伝えています。
考えてみましょう
分からないまま、疑ったまま過ごしてきた時間を、あなたは今どう見ていますか。
参考礼拝メッセージ
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