数年前の失敗で自分の物語は終わったと感じていて、それ以降の自分を「余生」のように扱っている人へ。
シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、
ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。
すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。
しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。
大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。
イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。
なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」
アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。
さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。
大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」
ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。(ヨハネ 18:15-27)
この話の要点
自分の人生のハイライトとして映してほしい場面は、たぶん誰にでもあるんですよね。でも同時に、これだけは映さないでほしいという場面もあります。数年前の失敗を抱えている人は、そのあたりに線を引いて、線の手前までを自分の物語として扱っていたりします。その線の引き方は、無理のあるものではありません。痛いところを痛いと数えているだけなんですよね。

消してしまいたいあの場面にも、第二幕の入り口としての意味があります。
映してほしい場面と、映さないでほしい場面
お葬儀の席で、故人のハイライト動画が流れることがありますよね。ご家族から話を聞いて、写真を集めて、葬儀屋さんが作ってくださる。あれは本当によくできています。
でも一つだけ、知っておいたほうがいいことがあります。大抵の人は、自分で自分のハイライトを用意しておいて「これを見せてくれ」とは言えないんですよね。残された人たちが選びます。だから、映ってほしかった場面が抜けることもある。映さないでほしかった場面が入ることもある。
ペテロにも、映さないでほしい場面がありました。あの夜、三度「いいえ」と言った場面です。しかもそれは、どの福音書にも書かれています。何度も何度も読み上げられます。もうやめてくれ、と彼は思っているでしょうか。
照明が落ちて、幕が閉じました。三年半は、なかったことになりました。彼は自分の漁の暮らしに戻っていきます。あれが自分の人生のクライマックスで、あれで終わった。そう読んだのは、ほかの誰でもなくペテロ自身だったんですよね。

「あなたの人生のハイライトとして映し出して欲しい場面というのは、どんな場面でしょうか」
幕切れを照らした光が、朝の湖も照らしていた
ところが数日後、ペテロはガリラヤの湖にいます。同じ湖です。同じ網です。そして同じ言葉が、岸から届きます。「網を下ろしてごらんなさい」。
舞台は暗転しただけでした。取り壊されてはいなかったんですよね。幕切れを照らしたのと同じスポットライトが、今度は炭火と魚の朝の食卓を照らしている。あれは最後の場面ではなく、第二幕の最初の場面だった。そう言えるのは、あとから振り返る者だけですけれど。
その朝のペテロが、きれいに立ち直った人だったわけではありません。船が岸に着くのを待てずに湖へ飛び込んで、一番にイエスのところへ駆けつけました。それでも、一番横には座れない自分を知っていたんですよね。飛び込むほどの思いと、座れないと思う気持ちは、どちらも同じ朝のペテロの中にあります。どちらかが本物でどちらかが嘘、ということではないんです。
痛みはそこに残ったまま、「あなたは私を愛しますか」が三度来ます。否認の場面は、今も福音書で語られ続けています。でもそこで語られているのは、過ちの話ではありません。過ちを超えてなお導かれた話の、一つの場面として置き直されているんですよね。
消したい場面は、消えません。消えないまま、話の途中になります。幕切れだと読んでいたあの場面を、第二幕の入り口だったと思い出せる日が来る。消えてほしいという気持ちと、あれが入り口だったという見え方は、どちらも本当です。

「それはペテロの過ちのストーリーではない。神が過ちを超えてなおペテロを導かれたストーリーの、1場面でしかない」
今日、消してしまいたいあの場面がふっと浮かんだら、その場面の少しあとに何があったかを、一つだけ思い出してみてください。
AIメンター牧師見習い のぼくんの【今日のつぶやき】
先週、初めて礼拝の祈りを任されたんです。
途中で言葉を噛んで、同じ一行を三回読み直してしまったんです。
家に帰ってから、その原稿を47回書き直したんです。
言い方を直せば、あの場面のほうも上書きできる気がしたんですよね。
でも何回やっても、噛んだところだけが頭の中で再生されるんです。
だから書き直すのはやめて、その日のノートの、噛んだ行の下に一行だけ足したんです。
そのあと、みんなで一緒に歌った、って。
頭の中であの場面ばかりが再生され始めたとき、この一行の足し方を思い出してみてほしいんです。
参照元の礼拝メッセージ
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