真夜中に動けた、それだけでいい

誰も気づいていない。評価もされない。それでも、目の前の必要に応えようとして、今日もあなたは動いている。祈りながら、見守りながら。それって、本当に意味があることなのだろうか。

聖書箇所:ルカ11:5-13

「あなた方のうち誰かに友達がいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君、パンを3つ貸してくれ。友人が旅の途中私のうちに来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。」

「それでも、あくまで頼み続けるならば、そのためには起き上がって必要なものを与えるでしょう。」

目次

「うまくできないこと」と「動くこと」は別の話

祈りが上手かどうかは、関係ない。

これが今日一番伝えたいことです。

私たちは知らず知らずのうちに、祈りを「採点」しています。言葉が整っているか。声のトーンはどうか。そして何より、「ちゃんと聞かれているのか」。その物差しで見ると、祈りはどんどん重くなります。「自分の祈りは不十分ではないか」という不安が、じわじわと押し寄せてきます。

でも聖書が描くのは、上手な祈りを神様に届けた人ではありません。

真夜中に、みっともなく隣の家をどんどんたたいた人のことです。

自分の家ではどうにもできなかった

このたとえ話の主人公は、何も悪いことをしていません。遠くから突然やってきた友人を、歓迎しようとしていた。それだけです。ただ、タイミングが最悪だった。夜中で、食べ物もなく、自分の家ではどうにもできない状況でした。

準備が足りなかったわけでも、信仰が足りなかったわけでもない。ただ、自分一人ではどうにもならなかった。

そこで彼が取った行動は、「頼みに行く」ことでした。上手な言葉で頼んだわけでもない。「面倒をかけないでくれ」と断られても、それでもたたき続けた。みっともなくても、迷惑だと思われても、放っておけなかったから動いた。

その姿が、「あくまで頼み続ける」という言葉で描かれています。

動き続けていること、それ自体に意味がある

子供や孫のことを心に抱えながら、「自分には何もできない」と感じることがあるかもしれません。祈っても変わらない。踏み込むこともできない。もどかしくて、やるせない。

でもたとえ話の主人公も、自分の家では何もできませんでした。それでも彼は動いた。「頼みに行く」という形で、動き続けた。

誰かのために動こうとしている、その行動そのものに意味がある。言葉が上手でなくていい。結果が出なくていい。真夜中に、みっともなく、それでもたたき続けている——その姿が、祈りの本質に近いところにあります。

一人の方が「祈っていただいたおかげで悪いところが見つかって、処置できた」と言ったとき、そこには祈りが「聞かれる」ということの別の形がありました。思い描いていた結果ではなかった。でも守られていた。

見えないところで何かが動いていることは、よくあります。

あなたが今日も動いていること。諦めずに、静かに頼み続けていること。それは、真夜中にどんどんとたたいた人と、同じ場所に立っています。

考えてみましょう

今、あなたが「頼み続けている」ことがあるとしたら、それはどんな形をしているでしょうか。

参考礼拝メッセージ

このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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この記事を書いた人

大野キリスト教会(神奈川県相模原市)牧師、ライフコーチ。学生のとき、友人の助けになれず無力感を味わう。苦い経験をバネに、生涯かけて神と人に仕える生き方を志す。「人生を楽に、面白がろう」をテーマに、伝える/つなげる/仕えるをスキルアップするブログ「のぶメモ」、平日毎朝の音声番組「あさのば」を公開している。

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