0044 あぁ、なんてあなたは罪な人…

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どうも、早起き牧師の中澤信幸です。

 

2017年3月30日木曜日、第44回目の放送です。

 

毎週木曜日は聖書のことばの紹介。今日は、「罪」ということの意味がわかることばを紹介します。

 

 

[note]

2011年3月30日木曜日、第44回目の放送、お相手は中澤信幸です。

善を行うことができない

今日紹介する聖書の言葉は、「私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています」ローマ人への手紙という、聖書の中でも後半の方、新約聖書に書かれていることばです。

誰でも悪いことをしようと思ってする人はいないわけですよね。ごくまれに、そういうことしようと思ったんだって言う極悪犯罪人のような人がいたりしますけれども。多くの身近な出来事というのは、「イヤ、そんなつもりじゃなかったのに」「私は良いことしようと思ったのに」ということが多いものです。

「自分でしたいと思う善を行うことができない」「かえってしたくないと思う悪を行ってしまう」これが私たちの現実なのではないでしょうか。良い生き方をしたい。悪い生き方はしたくない。人に親切にしたい。人に冷たくはしたくない。そんな私たちの思いがあるにもかかわらず、毎日の生活、実際の行動についてといえば、いつの間にか本当はしたいと思っていることをすることができず、本当はすべきでないと分かっているのにしてしまう。そんな現実がありますよね。

完全に正しい人でさえ

これを書いているのはパウロと言う人物です、この人のことを考えてみると、言葉の重みがさらに増してきます。彼はユダヤ人として生まれて、律法的に厳格な教育を受けてきました。律法というのは、事細かに生活様式を定め、こういうふうに歩むことが正しいのだ、と教えているものです。それを一つ一つ、誰よりも守り行ってきた、そう自負していた人ですし、また人からもそう尊敬されてきた人物です。それにもかかわらずですよ。その彼ほどの人物が「私は自分のしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っている」という。あなたもですか?って感じなんですよねぇ。

厳格な律法を守る人であってもそうだ、と言うことは、私たちの誰もが同じ性質を抱えていることを表しているでしょう。世の中のいい人は例外、とかですね。あるいは、こんなふうに意志が弱くて情けないのはごく一部の限られた人、とか。そういうふうには言えないのでしょう。人であれば誰しも、したいと思う善を行わず、したくないと思う悪を行ってしまう、という弱さや愚かさの性質を持ってしまっているようです。

罪とは私たちの性質のこと

聖書が罪というときには、一つ一つの行動や行為を指して罪と呼んでいるのではありません。もちろん、それらも含まれていますけれど、むしろそのことを生み出してしまう、私たちの性質を指して「罪」と指摘します。いいことをした、悪いことをしたっていうこと以上に、そういうものが出てきてしまう、これが私の罪なんだ、と書いているわけなんです。

いやーこう理解すると、聖書のこの箇所というのは、私たちのことを書いてるんだなぁ、と思わされます。私自身も、本当にこういう弱さとか、愚かさとかに日々向き合って、情けないものだなぁと思って生きています。

 

みなさんはどうでしょうか?今日の聖書のことばを聞いて、何か思い当たるところがありましたか?

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中澤信幸(キリスト教牧師✕ライフコーチ)

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