
レビ記は聖書の中でも最も読み進めるのが難しい書物の一つかもしれません。細かい儀式の規定、清い・清くないものの区別、複雑な生贄の捧げ方など、現代の私たちの生活からはかけ離れた内容が延々と続きます。多くの方が創世記、出エジプト記と読み進めてきて、レビ記で挫折してしまうのも無理はありません。
しかし、この一見取っつきにくいレビ記の奥深くには、実は神の愛の真髄が隠されているのです。「愛のルール」シリーズでは、レビ記に記された様々な規定が単なる律法ではなく、神様と私たちの間の特別な愛の関係を表していることを探求します。神様が「私は聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」と言われるとき、それは私たちに重荷を負わせるためではなく、神様ご自身の側に私たちを招き入れるという愛の表現なのです。
このシリーズを通して、レビ記の中に隠された神の愛の深さと、それに応答する私たちの生き方について共に考えていきましょう。

1. 聖なる者として
神様はなぜ私たちに「聖なる者となれ」と言われるのでしょうか?それは単に「規則を守れ」という命令なのでしょうか?このメッセージでは、「聖さ」とは何かを根本から考え直します。実は、神様と私たちの関係は、特別な贈り物を送り合うような相思相愛の関係に例えられるのです。神様がエジプトから民を救い出し、荒野で養われたように、神様は常に私たちの幸いのために行動されます。そして私たちも、神様の側にあって、神様が喜ばれることを選び、約束し、実行していくよう招かれているのです。あなたは神様との間にこのような特別な関係を築きたいと思いませんか?

2. 贖いの日
私たちは皆、自分の罪や過ちに苦しむことがあります。「神様は私の罪に怒っておられるのではないか」「どうすれば神様の怒りを鎮められるのか」と悩むこともあるでしょう。しかし、レビ記に記された「贖いの日」の儀式は、私たちが考えているのとは全く異なる神様の姿を示しています。神様は一つ一つの罪に怒っているのではなく、罪の現実に心を痛めておられるのです。そして、イエス・キリストにおいて、神様は完全な贖いを備えてくださいました。このメッセージを通して、神様の愛に基づく贖いの真の意味と、それが私たちの日常生活にどのように関わるのかを発見してください。

3. 愛はあるのか?
「隣人を自分自身のように愛しなさい」—この言葉を聞くとき、私たちはすぐに「でも…」と言いたくなります。「あの人を愛するなんて無理だ」「そんなことをしたら自分が損をする」と。しかし、イエス様は「良きサマリア人」の例え話を通して、愛するとは何かについて根本的な転換を迫られます。愛とは単に感情や行動の問題ではなく、「隣人になる」という生き方の問題なのです。さらに、私たちの愛は目の前の人だけでなく、その先の人にまで届いていくという壮大な視点も示されます。このメッセージでは、神様の大きな愛のルールの中で、私たちがどのように隣人となり、愛を実践していけるのかを考えます。あなたの人間関係に新たな視点をもたらす内容です。
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