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ここまで全力でやってきた。でも、どうにもならない現実が来てしまった。そんな経験はありませんか。祈りながら、見守りながら、それでも事態が動かない。そのやるせなさを、聖書のある場面が静かに映し出しています。
聖書箇所(ルカ8:49、54より):
「あなたのお嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすことはありません」
「少女よ、起きなさい」
八方尽くしても、動かない現実
ヤイロという男性のことを考えます。
彼は会堂管理者でした。地域の集会所の運営を一手に担い、礼拝の段取りから、人々の暮らしの心配まで、気を配り続けた人物です。みんなが信頼していました。なくてはならない人でした。
でも今、彼には何もできませんでした。
12歳になる一人娘が、死にかけていたのです。
お金は惜しまなかったはずです。信頼できる医者も呼んだでしょう。人脈を辿って、薬も手に入れようとしたでしょう。それでも娘の病状は変わらない。そこでようやく、彼はイエスのもとへ向かいます。
会堂管理者として胸を張ってきたのではありません。足元にひれ伏しました。「私には、あなたに願う資格などない。でも、あなたにしか頼めない」——そういう姿で。
そこまでして、それでも間に合いませんでした。
使いの者が来て告げます。「亡くなりました。もう先生を煩わすことはありません」。
「もう」。この一言が、すべての望みを断ち切りました。
嘲笑いの中で、イエスは言った
ヤイロの家には、すでに多くの人が集まって泣き悲しんでいました。共に祈ってきた人たちです。一緒に心配してきた人たちです。
そこへイエスが来て、言いました。「泣かなくても良い。死んだのではない。眠っているのだ」。
人々は嘲笑いました。当然でしょう。「私たちがどれだけこの子のために祈ってきたと思っているのか。その現実を見て、何を気休めを言っているのか」。
私たちも、同じ反応をするはずです。死と眠りは違います。大切な人を看取った経験のある人なら、その瞬間の感覚を知っています。それは「眠り」ではない。そんなことは分かっています。
でもイエスは、娘の手を取りました。そして言いました。「少女よ、起きなさい」。
少女は立ち上がりました。
これは、人間の持つ「常識」や「限界」を、神が超えた場面です。「もう」という現実の向こうに、イエスは手を伸ばしました。
同じ言葉が、二人に届いた
この場面の直前に、もう一人の人物が登場しています。12年間、病を患い続けた女性です。
彼女はイエスの衣に触れました。それだけで癒されました。イエスはその人に言いました。「あなたの信仰があなたを直した。安心して行きなさい」。
12年間病を抱えた女性と、12年間健やかに育ったのに突然死を迎えた少女。この二人の結末は違います。状況も違います。でもイエスは、両方に同じことを語りかけています。「信じる」こと。そして「恐れない」こと。
ヤイロに向かって言われた言葉が残っています。「ただ信じなさい」。
この「ただ」は、「たった一つ」という意味だそうです。八方尽くして、もうどこにも手がかりがなくなった時に、最後に残るたった一つのもの。その一点に向かって、なお信じる。「もう」という状況が来ても、それは信じることを妨げるものではない、とイエスは言うのです。
今日、「もう」と感じる部分があるかもしれません。動かない現実を前に、打つ手が見つからないことがあるかもしれません。それでも、足元にひれ伏したヤイロと同じ場所に、私たちも立つことが許されています。何かを成し遂げたからではなく、ただ来ることができる、その場所に。
考えてみましょう
「もう手遅れ」と感じる現実を前にした時、あなたはイエスに何を言いたいですか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

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