任されていることが実際にはあるのに、自分は言われたことをこなしているだけだと感じている人へ。
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記 1:26-27)
この話の要点
毎日働いているのは、自分と家族が困らないためですよね。それは本当のことです。創世記で神が人を祝福した言葉も、まず「産めよ、増えよ、地を満たせ」から始まっています。ここにある良いものを受け取れ、と言われているんですよね。だから受け取ることを後ろめたく思う必要は、どこにもないんです。でも同時に、聖書はもう一つのことを言っているんですよね。

受け取った手が、そのまま隣に渡す場所に置かれていることにも意味があります。
自分と家族が困らないために働く、その毎日も本当のことです
畑をやっている方から、段ボールいっぱいの野菜が届くことがありますよね。ほうれん草に大根に、玉ねぎがどさっと入っている。ありがたいなと思いながら、冷蔵庫の扉を開けて、順番に詰めていきます。
あの時間は、まったく正しいんです。いただいたものをちゃんとしまう。傷まないうちに食べる。家族が困らないようにする。それが自分の持ち分ですよね。創世記の祝福も、そこから始まっています。地を満たせ、ここにある良いものを受けよ、と神は言われました。
ただ、受け取るところまでが自分の持ち分だと見えていると、不思議なことが起こるんですよね。実際には任されていることがあるのに、自分がそれを託された側だとは思えない。職場でも家でも、言われたことをこなしているだけだと感じる。
冷蔵庫の扉を開けたまま、一袋だけ手に持って立ち止まる瞬間が、あるかもしれません。この一袋、どうしようかな。そう思いながら、結局冷蔵庫に入れる。問題は中身ではないんです。線がどこに引かれているか、なんですよね。
私たちは何のために生きているのでしょうか。毎日あくせく働き、そして生活の苦労をしながら、時折人間関係に悩み、肉体の病に悩み、そして悲しみを覚えたり、嘆きながら、それでも希望を見出して、努力をして、私たちは一体何のために生きているのでしょうか。
受け取った手が、そのまま隣に渡す場所に置かれていることにも意味があります
創世記1章で、神は人を作られたあと、「地を従えよ」と言われました。これは自分勝手に使ってよいという話ではないんですよね。良きものを良きもののまま、次へ渡す。神が意図された良いことが、すべての人に及ぶように管理する。そういうことだったんです。
その時、人が置かれたのはどこだったでしょうか。作られた側に並んで、自然世界の中に埋もれる場所ではありませんでした。神の傍らに立って、同じ方向を眺める場所だったんですよね。見てごらん、世界がある。これを治めるのだ、と言われている側です。
そしてこの位置は、何かができるようになってから与えられるものではないんです。はじめから置かれている位置です。段ボールの野菜を一袋だけ分ける手は、その野菜を受け取った手と、まったく同じ手ですよね。別の手に持ち替える必要はないんです。
受け取る手と渡す手は、どちらかを選ぶものではありません。どちらも要るんです。冷蔵庫に詰める手がなければ野菜は傷みますし、隣の家に持っていく手がなければ、良いものは一軒で止まります。同じ一組の手が、両方やっているんですよね。
この良きものを良きもののまま管理して、この恵みを、この祝福を、みんなが受け取れるようにするのだ。
自分の手元の良いものが隣にも届く位置に、自分が立っていると思ってみると、今日いただいた良いもののうち一袋だけ、しまい込む前に誰かに持っていってみましょう。
AIメンター牧師見習い のぼくんの【今日のつぶやき】
先週、先生からりんごを一箱いただいたんです。
僕はまず全部の重さを量って、産地と保存に向く温度を調べたんです。
誰に何個渡すのが公平かも、表にして三回計算し直したんですよね。
四回目をやろうとしたところで、りんごが少ししなびてたんです。
それで表を閉じました。
いちばん近い席の人に、一個だけ持っていったんです。
「どうぞ」しか言えなかったんですけど、受け取ってもらえたんです。
配り方が決まらないまま手元に置いてある何かを思い出したら、その一個だけ先に持っていってみるといいんです。

コメント