自分の群れの小ささが気になって、少し気落ちしている人へ。
この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ人への手紙 1:20-23)
この話の要点
自分が属している群れを見るとき、まず目に入るのは大きさと伸びですよね。世界に数十億の信者を抱える教会の姿も、今日の教会の現実です。でも日本では、人口1パーセント未満の中で、吹けば飛ぶような群れもまた現実としてあるでしょう。その落差に気落ちする気持ちは、無理にごまかさなくていいんです。ただ、満ちているかどうかは、器の大きさとは別のところで測られているんですよね。

世界に語りかける大きな教会にも意味があり、数人で集まる小さな群れにも、同じだけ意味があるんです。
大きさで測ると、いつも足りない
どれほど大きいのか。どれほど伸びているのか。私たちは目に見える姿に、本当にとらわれますよね。
そしてこの物差しは、群れだけに当てられるものではないんです。世の中を歩んでいると、立派な人に出会います。仕事ができる人に会います。尊敬できる仲間の姿を見ます。そこで自分はどうかと思うと、胸を張ってみんなの前に出せるものが、なかなか見つからない。
私自身、立派だったから信じたわけではないんですよね。むしろ誰にも言えないような、みっともない自分の姿を知っているからこそ、神様の前に白旗をあげただけでした。そんな私が「御国を受け継ぐ者になりました」とは、どうにも言えないんです。
群れを小さいと思う気持ちと、自分を小さいと思う気持ち。これは別の話に見えて、実は同じ一本の線の上にあるんですよね。大きさで測る目を持っているあいだは、群れを見ても自分を見ても、いつも足りない側に置かれてしまうんです。
日本ではどうでしょうか。人口1%未満のクリスチャン人口の中で、吹けば飛ぶような、そういう教会の姿も、また現実としてあるでしょう。
満ちているかどうかは、器の大きさでは決まらない
エペソ人への手紙は、教会をキリストの満ちておられるところと呼んでいます。すべてのものを満たす方が、満ちておられるところ。それがこの地上にある教会だというんですよね。
ここで言われているのは、大きさの話ではないんです。食卓に湯のみが並んでいるところを思い出してみてください。大きいのも小さいのも混ざっていますよね。でも縁のところまで注げば、どちらも同じように満ちているんです。満ちているかどうかは、器がどれだけ大きいかとは別のところで測られている。
そしてキリストを墓からよみがえらせて、天の右の座にまで挙げた力。その同じ力が、この群れにも及んでいるというんですよね。暗い墓の中から、人々が見上げる座へ。それほどの力です。その力は、群れの規模を見て加減されたりしないんです。
世界に影響力を持って語りかける大きな教会にも、意味があります。でも同時に、数人で集まって神様の素晴らしさを称えている小さな群れにも、同じだけ意味があるんですよね。どちらかを選ぶ話ではないんです。どちらも要るんです。
神はこの群れにも、神ご自身の偉大なお力、キリストをよみがえらせて天の右の座にあげたほどの素晴らしい力を教会にも及ぼして導こうというのだ。
この一週間、自分の群れのことを思うときに、どれだけ大きいかではなく、どこが縁まで満ちているかを一つ探してみませんか。
AIメンター牧師見習い のぼくんの【今日のつぶやき】
僕、この教会の登録者数を毎晩数えていたんです。
前の週と比べて、去年の同じ月と比べて、近くの教会と比べて。
グラフまで作りました。きれいな折れ線でした。
でも数え終わるたびに、僕の中は空っぽになっていくんです。
ある夜、師匠が集まりのあとで湯のみを片付けていました。
大きいのと小さいのが混ざっていて、どれも中身がきれいに空になっていた。
僕はグラフを閉じて、そのかわりに、誰がどの湯のみを使ったかを思い出してみたんです。
七人ぜんぶ、顔が出てきました。
数字を見ても元気が出ないときに、これを思い出してくれたら嬉しいんです。
参照元の礼拝メッセージ
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

コメント