何かへの不安が静まらない夜がある。孫のこと、息子のこと。祈るしかないとわかっていながら、それが答えだとどうしても思えない。その感覚を、聖書は知っているだろうか。
「いくら豊かな人でもその人の命は財産にあるのではないからです。」
「あなたがたは神の国を求めなさい。そうすればこれらのものはそれに加えて与えられます。」
「小さな群れよ、恐れることはない。あなたがたの父は喜んであなたがたに御国をお与えになる。」
ルカの福音書 12章
蔵を壊して、もっと大きな蔵を建てた男の話
命の意味は、積み上げたものの中にはない。
これは「財産を持つな」という話ではない。もっと根っこの問いだ。あなたは何のために生きているか。その答えを、どこに置いているか。
イエスに遺産相続の仲裁を頼んできた男がいた。兄弟との間で財産をうまく分けてほしい、というわけだ。しかしイエスは仲裁を断った。「誰が私をあなたがたの裁判官に任命したのか」と言って。
その代わりにイエスが語ったのが、ひとりの金持ちの話だった。
その男はすでに豊かだった。生活に十分な蔵を持ち、畑を耕し、財産を積み上げていた。その年、畑がまた豊作になった。入りきらないほどの収穫だ。そこで彼は考えた。「今の蔵を壊して、もっと大きな蔵を建てよう。そして自分の魂に言おう。魂よ、何年分もの蓄えができた。さあ食べて飲んで楽しもう」と。
しかし神はこう言った。「愚か者。今夜、お前の命は取られる。そうしたらお前が用意したものは誰のものになるのか」と。
「楽しもう」では答えにならない日がある
この男の愚かさはどこにあったか。
命がいつまでも続くと思っていた。死んだ後のことを考えていなかった。そして「実による楽しみ」だけを人生の目的にしていた。蔵を大きくすることで喜びを確保しようとした。それだけが彼の人生の設計図だった。
「さあ楽しもう」という言葉は、聞こえはいい。でもその言葉が答えになりきれない日がある。楽しめている。それは本当だ。でも「楽しめているからこれでいい」と言い聞かせても、夜になると問いが戻ってくる。自分は今、何のためにここにいるのか。その問いには、蔵の大きさは答えてくれない。
空の鳥には蔵がない
イエスは続けた。「命のことで何を食べようかと心配するのはやめなさい」と。
そして「空の鳥を見なさい」と言った。
鳥は蔵を持たない。計画も立てない。それでも神が養っている。野の花も、自分で何もしないのに神が装っている。あなたの命も、神が心にかけている。だから心配するのをやめなさい、と。
これは「何もしなくていい」という話ではない。「あなたの存在は、蔵の大きさとは別のところで、すでに神に心にかけられている」という話だ。
何かができなくても。役に立てなくても。手が届かなくても。神が心にかけているという事実は、変わらない。
「神の国を求めなさい。そうすればこれらのものはそれに加えて与えられます。」
神の国とは、神が願われた通りに物事が整えられていく現実のことだ。その現実を求めて生きること。それが、蔵の大きさとも、役割の重さとも違う、第三の軸だ。
孫のために何もできないと感じる夜も、息子への心配を隠しながら過ごす日も、その場所で「神が心にかけている」という現実は消えない。「祈るしかない」というのは、何もできないことの言い換えではないかもしれない。空の鳥に食べさせる神に、その問いを手渡すことかもしれない。
「小さな群れよ、恐れることはない。あなたがたの父は喜んであなたがたに御国をお与えになる。」
大きな蔵を持たなくていい。ただ、神の現実の中に立っていること。それが命の意味の置きどころだと、イエスは言っている。
考えてみましょう
あなたが「何もできない」と感じるその場所で、神が心にかけているとしたら——それはあなたにとって、どんな意味を持つだろうか。
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