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真面目にやっている。ちゃんと伝えている。それなのに、なぜこんなに疲れが取れないのだろう。その問いを、2000年前に語られたたとえ話が静かに照らしています。
「みなさい、3年もの間行ってきてはこのイチジクの実のなるのを待っているのに、なっていた試しがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」
「ご主人、どうか今年1年そのままにしてやってください。木の周りを掘って肥やしをやってみます。」
葉だけが立派に茂っているということ
ブドウ園に植えられたイチジクの木がありました。
主人は実を期待して植えました。1年目、2年目、3年目。丁寧に世話をして、期待して、毎年足を運んだ。それでも実はひとつもならなかった。葉だけが立派に茂っていた。
「切り倒せ」と主人は言います。
これは短気な怒りではありません。3年間、誠実に待った末の言葉です。
このたとえが語られる前、イエスは「偽善者」という言葉を使っています。偽善者とは、悪人のことではありません。外側はとても整っている。立派で、誠実で、信頼される。でも外側と内側がズレている人のことです。
葉は茂っている。でも実はない。
「ちゃんとやっています」「信頼してください」と言いながら、内側では何かが空洞になっている。そういう状態を、このたとえは静かに描いています。
「もう1年」と言った人
主人が切り倒せと言ったとき、番人は答えます。
「もう1年、そのままにしてやってください。」
この番人は、ずっとこの木の世話をしてきた人です。水をやり、周りを掘り、肥やしを入れてきた。この木が本来どんな実を結べるかを、誰よりも知っている人です。だから「もう1年」と言えた。
この言葉は、甘やかしではありません。「来年も実らなければ、切り倒してください」と番人自身が言っています。猶予には終わりがある。それでも今は、もう1年。
ここで番人が言っていないことがあります。「木よ、急いで実を結べ」とは言っていない。「主人が来るぞ、急いで外側だけでも整えろ」とも言っていない。ただ、木の周りを掘って、肥やしをやる。内側から実りが育つための条件を整えようとしている。
実りは、外側から貼り付けられるものではないからです。
「正しくやっている」のに届かない、という疲れ
正しい情報を伝えている。丁寧に関わっている。それでも相手が変わらない。そのとき私たちは何を思うでしょうか。
「伝え方が悪かったのか」「もっとちゃんとやらなければ」と、また自分に戻ってしまう。
でも、このたとえは少し違うことを言っているように聞こえます。
葉を茂らせることに力を使い果たしていないか。外側を整えること、ちゃんと見せること、正しくあること——そのためのエネルギーが、実を育てる内側のプロセスを、むしろ追い越してしまっていないか。
番人は木を責めませんでした。急かしませんでした。ただ、内側が育つための条件を整えようとした。
もしかしたら、あなたの周りにも、静かにそうしている人がいるかもしれません。そしてあなた自身も、今まさに、その「もう1年」の時間の中にいるのかもしれません。
考えてみましょう
今日あなたが使ったエネルギーのうち、どれだけが「外側を整えること」に向かっていて、どれだけが「内側から育てること」に向かっていたでしょうか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。

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