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隣人愛という言葉を聞いたとき、「私はちゃんとやっているか」と確認しようとする自分に、気づいたことはありますか。
笑顔で奉仕して、ニコニコしながら「大丈夫です」と答える。でも心の中では「これが私のやりたかったことか」という問いが静かにある。そんな場所にいる人に、この箇所は別のことを語りかけています。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。
(ルカの福音書10章)
「証明したかった」だけの問い
ある律法の専門家がイエスに近づきました。
彼の動機は単純です。「正しいと認めてほしかった」のです。
当時、イエスは学もない普通の人たちを弟子にしていました。その普通の人たちが「あなたの名が天に書き記されている」と喜んでいる。律法を幼い頃から守り、人々に教え、その権威を認められてきた専門家からすれば、腹が立つ話です。
「私の方がよっぽど正しい歩みをしている。そのことをイエスに確認させよう。」
だから彼は問いました。「何をしたら永遠の命を得られますか。」これは純粋な質問ではありませんでした。筋書きを用意した問いでした。正しい答えを言って、「素晴らしい、あなたには永遠の命がある」と言ってもらうための問いです。
イエスは律法を問い返し、彼は完璧に答えます。「神を愛せよ。隣人を愛せよ。」「そのとおりです」とイエスは言いました。
ここで終われば十分でした。でも彼はもう一歩踏み込みます。「では、私の隣人とは誰ですか。」
自分の正しさをもう一段確定させたかったのです。
「見ながら通り過ぎた」人たち
イエスはたとえ話で答えます。
エルサレムからエリコへの道で、旅人が強盗に襲われました。身ぐるみ剥がれ、半殺しにされ、道端に倒れている。そこに祭司が通りかかります。見た。でも反対側を通り過ぎました。次にレビ人が通りかかります。見た。でも通り過ぎました。
「見た」という言葉が、静かに刺さります。
目には入っていたのです。気づかなかったのではない。見た上で、通り過ぎることを選んだ。
教会で奉仕をこなす。礼拝の準備をする。ニュースレターを作る。笑顔で「大丈夫です」と言う。でも自分という個人を見た人が、この一週間に何人いたか——そういう場所にいる人には、この「見ながら通り過ぎた」という描写が、他人事ではなく響くかもしれません。
そして3人目が来ます。ユダヤ人から見下されていたサマリア人です。彼は見た。かわいそうに思った。近寄って行った。傷に手当てをした。
イエスは律法の専門家に問います。「この中で誰がこの人の隣人になりましたか。」
専門家は「サマリア人」とは言えませんでした。見下していた相手の名前を口に出せなかった。だから「その人に憐れみをかけた人です」とだけ答えました。
正しさを証明するための問いに、イエスは「誰が行動したか」という問いを返したのです。
あなたの問いの奥に、何があるか
律法の専門家の問いと、自分の問いが重なることがあります。
「私はここにいる理由があるか。」「この選択は正しかったか。」「私の知性は、まだ使えるか。」
これらは純粋な問いに見えて、その奥に「認めてほしい何か」があるかもしれません。
でも今日のたとえ話が語るのは、正しさの証明ではありません。見ること、近寄ること、手を触れることです。そしてその一歩を踏み出したのは、専門知識も権威も肩書きも持たない、見下されていたサマリア人でした。
「知性を尽くして神を愛せよ」という言葉があります。知性を使うことは、神を愛することと矛盾しません。ただ、その知性が「正しさの証明」のためだけに使われるとき、何か大切なものを通り過ぎてしまうかもしれない。
見ること。立ち止まること。近寄ること。
あなたが今日「通り過ぎかけているもの」は、何でしょうか。
考えてみましょう
あなたが誰かに「正しさ」や「存在の価値」を証明しようとするとき、その問いの奥には、本当は何を認めてほしいのでしょうか。
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