「召し」という言葉は、正しく生きてきた人ほど、重い問いになる。25年間、正しいことをしてきた。人のために発言し、地域のために動き、一人ひとりと向き合い続けてきた。それでも帰り道が重い夜がある。「また同じだった」という感覚が消えない。自分はいったい何のために、ここに立っているのだろうか。
「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子の形と同じ姿にあらかじめ定められた。」
「その召した人々をさらに義と認めた。義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
試験の合格者を呼んだのではなかった
神の「召し」という言葉は、誤解されやすいと思います。
試験があって、基準に達した人が選ばれる。ふさわしい者が呼ばれる。そういうイメージです。しかし聖書の順番はそうではありません。
神はまず「おいで」と言いました。呼んだのが先です。義と認めたのは、その後です。
「おいで」と言われた関係の中で、人は少しずつ作り替えられていく。右にそれ、左にそれ、立ち止まり、逆戻りしながら、それでも「おいで」と招かれ続ける。その関係の積み重なりの中で、義の歩みが形作られていく。
ふさわしくなってから招かれたのではありません。招かれる中でふさわしくされていく、という順番です。
「拍手する側」ではなく「共に喜ぶ側」に
ではその先に何があるのか。
駅伝で優勝したチームを、画面のこちら側で見ながら「よかったね」と声援を送る。それは確かに温かい関わりです。でも聖書が語るのは、そういう立場ではありません。
神の御業が完成するとき、私たちはこちら側の観客席にいるのではない。神のチームの一員として、それぞれの役割を果たしてきた者として、神の側で共に喜ぶ側に迎えられている。マタイ25章のタラントのたとえで、主人は僕にこう言います。「主人の喜びを共にしてくれ」と。命令ではなく、招きの言葉です。
ここで一つ、問いが浮かびます。
「拍手を受ける側にいる」という感覚は、「影響力を持つ側にいたい」という欲望と、どこが違うのか。
神の御業を担う者として喜ぶことと、数と成果で自分の価値を証明しようとすることは、外から見ると区別がつきにくい。そして正直に言えば、内側から見ても区別がつかない瞬間がある。
しかしここが大事な点です。「おいで」と先に招かれたという出発点を思い出すとき、何かが変わります。自分がふさわしかったから呼ばれたのではない。招かれる中で作り替えられてきた。その歩みは、自分が積み上げたものである前に、神が定めた関係の中で形作られてきたものです。
「招かれる中で義とされていく」という順番は、25年の歩みを無効にしません。ただ、その25年の意味の置き場所を、少し変えます。自分が建てた実績としてではなく、「おいで」と言われ続けた関係の痕跡として、読み直す余地が生まれます。
考えてみましょう
今、自分がやっていることの中で「神の側にあって共に喜んでいる」と感じられる瞬間があるとすれば、それはどんな場面だろうか。あるいは、その感覚がいつから薄れてきたように思うか。
このメッセージの全編はこちらからどうぞ。動画はこちら

コメント