答えの出ない問いを抱えたまま、今日も孤独に一日が始まる。そんな朝に、聖書が語りかけてくる言葉があります。神はどこにいるのか。遠くで待っているのか、それとも——。
神の御霊に導かれる人は誰でも神の子供です。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と呼びます。
ローマ8:14-15
神は、向こう側で待っていない
神はあなたが「うまくできたら会いに来ていい」とは言っていません。
聖書が語るのは、試練の向こう側で腕を組んで待つ神ではありません。今ここで、あなたの傍らにいる神です。
なぜそう言えるのか。このローマ8章の言葉が、はっきり教えてくれます。「アバ、父」というのは子どもが親の胸に飛び込んでいくときの呼びかけです。「おーい、向こうにいる誰か、助けてくれ」という叫びではない。手が届くところにいる人への、親しい呼びかけです。
しかも「困難であればあるほど、そのような中でお父さんと呼ばわる」と聖書は言います。うまくいっているときだけではない。何がどうなっているかわからないときこそ、その呼びかけは生まれる。
「傍にいる」が意味すること
想像してみてください。
ある困難が目の前にある。もし誰かに「支配されている」なら、自由はありません。その誰かが向こう側で何をするかわからない。恐怖と無力感だけが残ります。
でも、傍にいる父親なら、違います。一緒にこの現実を見る。横から歩みを支える。何が必要かを知って、与える。「あなたどうするかやってごらん、うまくできたらこっち側に来れるよ」とは言わない。あなたが直面しているこの現実を、共に見ている。
それが、聖書の言う「神の子供とされた」ということの中身です。
選んだのか選ばされたのかわからない状況の中にいても。自分が何者なのかという問いの答えが出ていなくても。「神の計画に信頼しなさい」という命令ではなく、ただ「傍にいる」という事実が、先に来ます。
問いのまま、呼んでいい
「アバ、父」という言葉は、答えが出たあとに言う言葉ではありません。
まだ何もわかっていない。どこに向かうかも見えない。それでも、傍にいる存在に向かって声を出すことを、この言葉は肯定しています。整理できていなくていい。信仰が十分かどうかを確認してから呼ばなくていい。
答えの出ていない問いを抱えたまま、「お父さん」と呼ぶことができる。それがここに書かれていることです。
あなたが今いる場所で感じている複数の本当のこと——誰にも言えないまま抱えてきた言葉、夜に繰り返す問い——その全部を知りながら、神は傍にいます。あなたを責めているのでも、急かしているのでもなく、ただ共に見ている。
考えてみましょう
もし今日、「お父さん」と神に話しかけるとしたら、最初の一言は何になるでしょうか。
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