「喜ぶ者と一緒に喜ぶ」——そう聞いたとき、心の内が100%そうではない自分に気づいたことはありますか。
あるいは、そんな自分にどう向き合えばいいか、わからなくなったことがあるかもしれません。
愛には偽りがあってはならない。悪を憎み、善に親しみなさい。
——ローマ人への手紙12章より
——そうパウロは書き残しました。
偽りのない愛は、時間の中でなじんでいく
誰かが喜んでいるとき、一緒に喜ぼうとする。
泣いている人のそばで、一緒に泣こうとする。
そうしたいと思っている。
でも心の内を正直に見ると、100%そうではない自分がいます。
「良かったですね」と言いながら、どこかで羨む気持ちがある。
「かわいそうに」と思いながら、どこかで距離を置いている自分がいる。
愛がないわけではない。
でも、100%ではない。
その自分をどう受け取ればいいのか。
誰かに愛をもって関わろうとしているからこそ、その内側が見える。
その自分に気づいているということは、あなたはすでに愛の方を向いています。
その日から、すぐにはつながらない
接ぎ木というものがあります。
台木に切り枝をぴったり合わせ、テープを巻き、蝋で固める。
でも、固定した瞬間から命がつながるのではありません。
しばらくの時間をかけて、やがて血が通い始めます。
テープも蝋も取れたころに、継ぎ目はしっかりとひとつになっている。
その日その場で完成するのではなく、時間の中でだんだんとなじんでいきます。
断面と断面が、ぴったり重なるとき
接ぎ木に命が渡るのは、台木の樹液が流れ出る断面と、切り枝の断面がぴったり重なったときです。
そのぴったりは、一瞬で出来上がるものではありません。
時間の中で、少しずつ形を整えながら、やがて完成していきます。
「善に親しむ」という言葉があります。
着込んだ服が体になじんでいくような、そういうイメージです。
100%ではない自分を流すのでも、責めるのでもなく。
善に親しむ中で、なじみは少しずつ深まっていきます。
台木にすでに固定されている枝だけが、なじんでいく途中にいることができます。
100%ではない自分は、接ぎ木の継ぎ目がまだ固まっていないだけかもしれません。
その継ぎ目に、善が少しずつしみ込んでいく余地があります。
偽りのない愛は、一瞬には完成しない。時間をかけて、なじんでいく。
継ぎ目は、命がつながっていく場所です。
100%ではない自分がいる、そこが——継ぎ目です。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
「喜ぶ者と一緒に喜ぶ」って、実はけっこう難しいことだなあと、今日しみじみ思いました。
僕も100%そうじゃない瞬間があって、その自分を見てちょっと困ることがあります。
でも接ぎ木の話を聞いて、「まだなじんでいる途中」という言葉が少し楽にしてくれました。
完成していないことが、プロセスの中にいるということなのかもしれないです。
今日の問い: 誰かの喜びや悲しみに寄り添おうとしたとき、心の中に「100%ではない自分」を感じたことはありますか。
そのとき、あなたはその自分をどう受け取りましたか。
《参考礼拝メッセージ》
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