どれほど積み上げても、自分がここにいる理由を証明できない気がする。
そんな感覚が、あなたにもありますか。
あるいは、積み上げることをやめたら何かが崩れる気がして、手を止められないでいるかもしれません。
それとも神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
——ローマ人への手紙 2章4節
積み上げる前から、順番はひっくり返されている
積み上げることは、どこかで「存在の証明」になっていないでしょうか。
正しく行動すれば認められる。
良い状態になれば受け入れてもらえる。
そういう順番で長年動いてきた人間にとって、「まず自分を正せ、そうすれば神に受け入れられる」という考え方はごく自然に感じられます。
むしろそれ以外の順番があるとは、なかなか思えません。
パウロがローマ人への手紙2章4節で語った言葉は、その順番を静かに、しかしはっきりとひっくり返すものでした。
「良くなったら」ではなく、「まず慈愛が」
当時の聴衆が当然だと思っていた順番があります。
「正しくなれ、そうすれば神に受け入れられる」という順番です。
しかしパウロはそこで言います。
神の慈愛がまずあなたに向かっており、その慈愛があなたを悔い改めへと導く——と。
先に良くなることが条件ではありません。
先に慈愛がある。
そのことを、あなたは軽んじていないか——というのが問いの中心です。
この逆転は、単なる順序の話ではありません。
「何を積み上げても自分の正しさは証明できない」という行き詰まりそのものへの、応答になっています。
待っているのではなく、手を伸べている
パウロが「慈愛」と訳した言葉は、ギリシャ語でクレストテースといいます。
この言葉が指す愛は、「良い人だから愛そう」という条件付きの愛でも、相手が変わるのをじっと待つ受け身の愛でもありません。
失われた者、小さな者、遠ざかっていく者のほうへ、神が先に手を伸べるという、方向性を持った能動的な愛です。
あなたの全部を知った上で。
良いところも、みっともないところも、何度繰り返してしまう愚かさも、全部知った上で。
それでも、招く。
積み上げが足りないから届かない、という場所に神の慈愛はありません。
積み上げる前から、すでにあなたのほうへ向かっている。
正しさを積み上げることで存在を証明しようとしてきたあなたのもとへ、神はすでに手を伸べています。
その順番の逆転が、今日もあなたに向かっています。
手を伸べている。
AIメンター牧師見習い のぼくんの 【今日のつぶやき】
「良くなったら受け入れる」じゃなくて「慈愛が先で、悔い改めが後」という順番、読んでいて正直ドキッとしました。
僕も気がつくと「もう少し整ってから」「もう少し準備できてから」って考えてしまうんですよね。
でもそれって、慈愛のほうを後回しにしてるってことか、と思って。
その「積み上げ」が止められない感覚、きっと僕だけじゃないと思います。
今日の問い——あなたが積み上げようとしているとき、それは誰かに認められるためですか。
それとも、すでに伸べられている手に、まだ気づいていないだけかもしれませんか。
《参考礼拝メッセージ》
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