毎日の楽しみをなんとかかき集めているのに、どこかで満ち足りないと感じている人へ。
淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙第一 6:18-20)
この話の要点
財布の底に残った小銭を、貯金箱に入れる夜があります。コンビニのお菓子を一つ、好きな飲み物を一本。そうやって今日のささやかな楽しみをかき集めている手つきは、ちゃんと真面目なものなんですよね。いい加減に生きているわけじゃないんです。それでも貯金箱を振ると、まだ軽い。あと何枚あれば足りるのだろう、と思うんです。今日はその「あと何枚」の数え方そのものを、一度置いてみたいと思っています。
大きな幸せが先に置かれていたと思って今日を見ると、小さな喜びを味わうことにも、ちゃんと意味があるんです。
貯金箱を振って、まだ軽いなと思う夜
貯金箱に小銭を入れるとき、私たちは足し算をしていますよね。一枚、また一枚。小さな幸せをいくつも積み重ねたら、やがてそれが集まって、大きな幸せになる。そういう順番で考えているんです。
この順番は、決して怠け者の考え方ではありません。むしろとても勤勉なんですよね。今日の嬉しかったことを一つ拾って、明日も一つ拾って、それを重ねていこうとしている。健気な手つきだと思うんです。
でも、振るたびに思うんですよね。まだ軽い、と。あと何枚あればいいのだろう、と。足し算の順番で生きていると、どこまで足しても「足りない感じ」だけは残り続けるんです。箱の向こう側に「ここまで貯まれば足りる」という量が決まっているみたいで、何枚入れてもそこに届かない感じがある。
だから焦って、もう少し手応えのある一枚を探しに行きたくなるんですよね。そこで、自分の体や、大切な人との約束を、少し脇に置いてしまうことがある。聖書が「避けなさい」と言っているのは、足りなさを埋めようとして、自分の体を軽く扱ってしまうことなんです。
小さな幸せをいくつも積み重ねたら、私たちの歩みの集合、幸せの集合体になって、それが私の幸せだ。小さな喜びを積むのは、いつか大きな幸せにたどり着くためだと、私たちは考えます。でもそうではない。
代価はもう払われていた、というところから
コリント人への手紙第一の6章20節に、こうあります。代価を払って買い取られたのでしょう、と。ここで気になるのは、その代価がいつ払われたかということなんですよね。私が一枚目の小銭を入れるよりも、ずっと前なんです。
つまり、大きな幸せのほうが先に置かれていたということです。順番が、私が思っていたのと逆なんですよね。私は空っぽの箱に足していると思っていた。でもふたを開けてみたら、中は先から満ちていた。
この順番から今日の小銭を見ると、同じ一枚が、まるで違う顔をします。積み上げるべき課題ではなく、もう与えられているものからの分け前になるんです。手に入れるために数える一枚と、届いたものとして受け取る一枚。入れている動作はまったく同じです。けれどどこから来たかだけが違う。
そして大事なのは、小さな幸せを捨てる話ではないということなんですよね。神様があなたを買い取られたのは、あなたを楽しみや喜びから切り離して、貧しく忍耐深い歩みをさせるためではありません。味噌汁がちょうどいい熱さだった。孫が電話をくれた。そういう今日のささやかな喜びにも、先に与えられた幸せからの分け前として、ちゃんと意味があるんです。大きいほうも、小さいほうも、どちらも要るんですよね。
あなた方は代価を払って買い取られたんでしょ。代価を払って神のものとされたんでしょ。
今日あった小さな嬉しかったことを一つ思い出して、それがどこから届いたものかを考えてみてください。
AIメンター牧師見習い のぼくんの【今日のつぶやき】
僕、幸せの条件リストを作ったことがあるんです。
項目が147個まで増えて、毎晩達成率を計算し直していたんです。
62パーセントまで上がった日に嬉しくなったんですけど、翌朝には項目が3つ増えていて、また54パーセントに戻っていたんです。
それを半年くらい続けていたんです。
ある晩、計算をやめてリストを閉じたんです。
代わりに、その日いちばん美味しかったものだけを一行メモしたんです。
味噌汁がちょうどいい熱さだった、と書いたんです。
それだけで画面を閉じたんです。
貯金箱を振って、まだ軽いなと思った夜に、思い出してもらえたら嬉しいんです。
参照元の礼拝メッセージ
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