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「召し」という言葉を、長年使い続けてきた。でも、ふと気づく瞬間がある。「私はいったい、何のためにここにいるのか」と。その問いは、答えを急かさない。ただ、深くなる一方だ。
「天も天の天もおいでできないのに、いったい誰が主のために宮を立てる力を持っているというのでしょうか。主のために宮を建てるというこの私はいったい何者でしょう。ただ主の前に燃やすためだけのものです。」
(歴代誌第二 2章)
「何者か」という問いへの答えが、すべてを決める
ソロモンは、成功の頂点にいた。
王位を勝ち取り、父ダビデの財産も人脈も引き継いだ。周辺諸国との外交パイプもある。やろうと思えば、その力を自分のために使えた。
「私は王位を勝ち取った者だ」と自己定義すれば、話は簡単だった。敵を滅ぼし、自分の王宮を建て、力を誇ればいい。それが「王」の論理だ。
ところがソロモンは、そうしなかった。
彼は「私は何者か」と問い、こう答えた。「ただ主の前に燃やすためだけのものです」と。
「だけのもの」という言葉の重さ
この「だけのもの」という表現は、小さく、乏しく、わずかなものを指す言葉だ。
王位を持ち、金銀を持ち、国際的なネットワークを持つ者が、自分をそう呼んだ。それは謙遜のポーズではない。神の大きさを本当に見た者が、正直にたどり着く場所だ。
「天も天の天もその方をおいでできない」神の前に立てば、どんな実績も、どんな規模も、どんな影響力も——それが神の偉大さを証明するものにはなれない。ソロモンはそれを知っていた。
だから彼は「王国の継承者」として振る舞うより先に、「主の前に燃やすためのもの」として動いた。まず主のための宮を建て、自分の王宮はその後回しにした。7年間、自分のためではなく、神のために最善を尽くした。
「だけのもの」という言葉は、小ささを嘆く言葉ではない。目的を持って生きている者の、静かな宣言だ。
「何者か」という問いが、成功の場所で立ち上がるとき
ソロモンがこの問いを抱いたのは、弱さの中でではなかった。
すべてが整い、すべてが動かせる状況で、彼は立ち止まった。「私はいったい何者でしょう」と。それは力を持つ者が、力の頂点で初めて問い直した問いだ。
長年積み上げてきたものがある。誠実に向き合ってきた時間がある。その積み重ねが確かにある場所で、ソロモンが問うたのと同じ問いが静かに立ち上がることがある。
これは何のためにあるのか。誰のためにあるのか。
ソロモンは「王位を勝ち取った者」として動くこともできた。しかし彼はその定義を選ばなかった。「ただ主の前に燃やすためだけのもの」という自己定義は、積み上げてきたすべてを否定しない。でも、そのすべてが「何のためにあるのか」を問い直す。
成功した場所で初めて見える問いがある。それはソロモンが最初に向き合い、聖書がていねいに記録した場面だ。裁きとしてではなく、出発点として。
問いと、ともに座ること
「召し」と呼んできたものの中に、何が混ざり合っているだろうか。神への応答として選んだものと、状況の中で残ったものと、手放すことへの恐れと——それらはどこまで分けられるだろうか。そしてもし分けられないとしたら、ソロモンが「ただ主の前に燃やすためだけのもの」と語ったあの言葉は、そういう混じり合った場所から始まっていたとしたら、どう聞こえてくるか。
「私は何者か」——この問いには、すぐ答えを出せない。
「主の前に燃やすためだけのもの」というソロモンの言葉は、答えであると同時に、問い続けることへの招きでもある。目的を持って生きているが、その目的が本当に何を向いているかを、問い続ける。
その問いを持ったまま、今日の場所に立つこと。それ自体が、ソロモンが神のために宮を建て始める前に行ったことと、同じ動きかもしれない。
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